第5話:氷の令嬢と古風な挨拶
水晶宮で開かれる王妃主催のお茶会への招待状は、我が家に丸一昼夜に及ぶ深刻な危機をもたらした。
理由は極めて単純。着ていく服がなかったのだ。
自室の軋む洋服箪笥を開けても、そこにあったのは五年前のデビュタント(社交界初お披露目)の時に着たきりのドレスが二着だけ。丈は短く、色あせた苔色の生地からは防虫剤とカビの匂いが漂い、袖を通せば腕の血が止まりそうなほど窮屈だった。
あんなボロを着て王宮へ行けば、「どうぞ没落貴族を笑ってください」と首から看板をぶら下げて歩くようなものだ。
翌朝、私はなけなしの勇気を振り絞って大使の執務机の前に立った。
「閣下」
オウレル大使が書類から視線を上げた。
「なんだ」
「水晶宮のお茶会についてですが……その、衣装に致命的な問題がございまして」
「まさか、二足目の靴にも穴が空いていたとでも言うつもりか?」
「いえ、靴は至って頑丈です。問題は私の夜会服でして……前世紀の虫に食い荒らされたような代物しか手元にありません。あれを着て王宮へ上がれば、庭の生垣を乗り越えて侵入した浮浪者と間違われて衛兵に捕縛される自信があります」
大使は短くため息をつき、羽ペンを置いた。
「……大使館の経費として処理しろ。私の専属通訳官が物乞いのような身なりをしていれば、帝国が財政危機に瀕していると要らぬ勘繰りを生む」
二時間後には、大使館お抱えの仕立屋が執務室に現れ、革のメジャーで私の採寸を手早く済ませていた。
王国の貴族令嬢が好むような、レースやフリルを何重にも盛った悪趣味なドレスは作られなかった。帝国の流儀はどこまでも実用的で軍隊的だ。
仕上がったのは、濃紺のビロードで作られた端正な立ち襟のドレス。無駄な装飾を削ぎ落とした細身のシルエットに、燻し銀のボタンと、歩きやすさを考慮した控えめなスリットが施されていた。
執務室の鏡に映った自分を見下ろす。
舞踏会でワルツを踊る令嬢というよりは、これから査問会に乗り込む司法官のような佇まいだった。
「……上出来だ」
私の姿を一瞥したオウレル大使の評はそれだけだった。
「派手さで目を引くこともなく、恥をかくこともない。行くぞ」
◇
水晶宮は、王国の底知れぬ浪費癖をそのまま具現化したような場所だった。
ガラスと金箔張りの鉄骨で組み上げられた巨大な温室のような回廊には、最高級の薔薇の香油が焚きしめられている。
色鮮やかな絹や何層ものフリルをまとった貴族たちが、シャンパンのグラスや陶磁器のティーカップを手に、鳥の巣のように高く結い上げた髪を揺らして談笑していた。
オウレル大使と私が大扉をくぐると、さざ波のような私語がホールを駆け巡った。
王国の貴族たちの眼差しは、自分たちの敷き詰めた絨毯の上を、帝国の重騎兵旅団に土足で踏み荒らされたかのような警戒と侮蔑に満ちている。
「姿勢を崩すな、ミス・ハートウェル」
オウレル大使が前を向いたまま、唇の端だけで低く囁いた。
「窓ガラスの役目を思い出せ」
「心得ております、閣下。……ただ、この広間にいる全員が、石を投げてそのガラスを叩き割りたがっているように見えますが」
少し進んだ焼き菓子のテーブルの近くで、金モールの上着を着た若者を中心にして取り巻きたちが下品な笑い声を上げていた。
エドマンド王太子。当時、十七歳前後の少年だ。大袈裟な身振りで狩りの武勇伝を語り、周囲の令嬢たちが愛想笑いを浮かべている。
だが、私の目を引いたのは、その輪から少し離れた場所に、まるで氷の彫像のように凛として佇んでいた一人の女性だった。
灰紫色の、完璧に糊の効いた夜会服。白銀に近い金髪を隙のない夜会巻きに結い上げ、近寄りがたい冷徹な美貌を湛えている。
コーデリア・アシュフォード公爵令嬢。
彼女のすぐ側で、二人の貴族令嬢が羽扇の陰からひそひそと毒を吐いていた。
「ご覧になって……コーデリア様、今日もあんな冷たい顔をして」
「帝国の学寮に三年間も留学していたからって、自分だけが特別だとでも思っていらっしゃるのかしら」
「エドマンド殿下もよくあの方を婚約者として耐えておいでですわ。まるで引退した家庭教師のようですもの」
コーデリアの耳にも、その陰口は届いていたはずだ。
手袋をはめた指がカップのソーサーをわずかに強く握りしめたのを私は見逃さなかった。けれど、彼女の顎は誇り高く上げられたままで、下品な囁きを一瞥することすらしなかった。
その時、エドマンド王太子がオウレル大使の姿に気づいた。
取り巻きたちの前で己の教養を誇示したかったのだろう。王太子は得意げに胸を反らし、わざわざ二歩前に進み出ると、拙い帝国語で大声の挨拶を放った。
『よき陣列を、大使殿! 汝の血が本日、穏やかに流れんことを!』
これ見よがしな発音だった。周囲の令嬢たちから「まあ、殿下は帝国語もおできになるのですね!」という賛辞を期待しているのが見え見えだった。
私は自分の唾液でむせそうになった。
彼が口にしたのは、二百年前の騎士たちが使っていた戦場用の古風な挨拶で、現代では舞台劇ですら使われない死語だ。
おまけに、この文脈における『血が穏やかに流れる』という言い回しは、大使の母親の血筋が卑しく濁っていることを侮辱する、極めて危険な二重の意味を持っていた。
国際問題に発展する前に口を開こうとした、その瞬間。
私より早く、動いた影があった。
――チリン、と。
銀のテーブルの上に、鋭い音を立ててカップが置かれた。
コーデリア・アシュフォードが迷いのない足取りで王太子の隣へと進み出て、周囲の貴族たちにもはっきりと聞こえる冷徹な声で言い放ったのだ。
「エドマンド様。その言い回しは百五十年前に廃れております。教養ある社交界におきましては、大使閣下の母君の貞潔を疑う無礼な侮辱と取られかねません」
王太子の得意げな笑みが、一瞬で凍りついた。
「こ、コーデリア……!? 何を言うんだ、私はただ格式高く挨拶を……!」
「公衆の面前で赤恥を晒されただけです」
彼女の声音には、一切の躊躇がなかった。
「他国の使節団の前でこれ以上王室の威信を損なう前に、どうかお口をお慎みください」
王太子の頬が、屈辱で真っ赤に染まった。
彼は子供じみた憎悪のこもった目で婚約者を見据え、言い返す言葉を見つけられないまま、激しい足音を立てて庭園の奥へと逃げ去っていった。
静まり返るティーサロン。
コーデリア令嬢がゆっくりとこちらへ向き直った。深い群青色の瞳が、私の視線と交差する。
職業的な反射で、私は帝国外交官の正式な敬礼――上体を三十度傾け、顎を引き、指先を揃える所作を取った。
彼女はわずかに眉を動かした後、ミリ単位の無駄のない会釈を返してきた。
言葉は交わさない。けれど、言葉の重みと正確さを知る者同士の、静かな敬意の交換だった。
彼女が優雅に去っていった後、オウレル大使が私の隣で低く呟いた。
「コーデリア・アシュフォード。この宮殿の中で、唯一頭蓋骨の中にまともな脳味噌を詰めている人間だな」
「……素晴らしい発音でした、閣下。旧帝都の高貴な方言です」
「ああ」
大使は彼女が消えた回廊の先を見つめた。
「そして、あの愚鈍な婚約者よりも遥かに賢いがゆえに、これから先、無数の敵に囲まれることになる女だ。……目を離すなよ、ハートウェル。ああいう人間は、頂点に立つか、周囲の凡庸さに足を引っ張られて破滅するかの二つに一つだ」




