第4話:はじめての舌戦
夜明けと同時に裏通りの古靴屋へ駆け込み、銀貨二枚で中古の革靴を買った。
丸みを帯びたつま先に、何度も修繕された分厚い革底。素朴な茶色の靴には、貴族の令嬢が履くような絹のリボンも飾り金具もついていない。左右で革の色が微妙に違うのは、以前の持ち主が片方だけ修理したせいらしい。
本当は銀貨一枚の靴もあった。けれど、靴底に穴が開いていたので諦めた。昨日までの靴と大して変わらないものを買っても意味がない。
結局、残っていた銅貨を数枚足して、つま先の革と靴底の継ぎ目を補強してもらった。
(……これで、しばらくは大丈夫よね)
明日の食事にも気を配らなければならない身としては、銀貨二枚だって決して安くない。それでも、冷たい水たまりを踏みしめても足先が濡れないというだけで、歩きながら思わず感涙のため息が漏れそうになった。
帝国大使館の通用門をくぐったのは、午前七時五十分。 始業時刻のきっかり十分前だった。
オウレル特命全権大使は、昨日見送った時と寸分違わぬ姿勢でマホガニーの机に向かい、山積みの書状に目を通していた。相変わらず、「この世のすべてが鬱陶しい」と言わんばかりの冷ややかな横顔だ。
私は部屋の隅の自分の小机へと向かった。 静寂。濡れた厚紙が軋む、あの情けない異音はどこにもない。
大使は手元の書類から視線を上げることなく、低く短く呟いた。 「……私の耳が感謝しているぞ、ミス・ハートウェル」
「予算の範囲内で最善を尽くしました、閣下」
返事はなかったが、彼の口角がほんのわずかに引き結ばれるのを私は見逃さなかった。
それから二時間ほど、羽ペンの走る乾いた音だけが支配する平穏な執務が続いた。だが、十時を少し回った頃、控えめだが切迫したノックの音が扉を叩いた。
応接係の書記官が、落ち着かない様子で執務室に滑り込んでくる。
「閣下、執務中恐れ入ります。王国外務省の関税局次長、ブラッドリー子爵が面会を求めて押しかけてまいりました。昨日、当館が差し引いた穀物関税の件で抗議があるとのことです」
「一人か?」 オウレル大使は眉ひとつ動かさずに問うた。
「いえ、王室の専属通訳官を一名帯同しております。『当館の不届きな誤訳による非礼を正しに来た』と息巻いておりまして……」
大使は、手元の羽ペンを静かに置いた。 「応接室に通せ。……ミス・ハートウェル、メモ帳を持ってついてこい」
喉の奥が小さく鳴った。 (……来たわね)
◇
大使館の応接室は、双頭の鷲のタペストリーと高い背もたれの椅子が置かれた、極めて簡素で冷淡な空間だった。
ブラッドリー子爵はすでに入り口付近を行きつ戻りつし、ステッキの握りを苛立たしげに指で叩いていた。
その隣で、これ見よがしに胸を張り、傲慢そうに顎を上げている二十歳前後の青年がいた。深緑のビロードの上着の襟元には、王室公認の証である銀の羽ペンのバッジが輝いている。
「オウレル全権大使!」 私たちが部屋に入るなり、子爵は形式的な挨拶すら待たずに声を荒らげた。
「昨日の貴館の対応は、あまりに横暴極まりない! 我が国の請求書から『不正』などと言いがかりをつけて金貨八十枚も差し引くとは、王国に対する侮辱ですぞ!」
オウレル大使は優雅な所作でソファーに深く腰掛け、長い足を組んだ。
「帝国の税法に則って処理したまでだ。乾いた街道を通った穀物輸送に対し、湿地の保全税を二重計上した理由を伺いたいものだな」
「それは専門的な解釈の相違というものだ!」 子爵は隣のビロードの青年を手で示した。
「こちらはクイル。王立通訳院でも屈指の俊英だ。彼が条約の原文を精査し、貴館の職員の浅学を正すために参上したのだ。説明してやれ、クイル」
通訳官クイルは、勝ち誇ったような薄笑いを浮かべて一歩前へ出た。
大使の背後に控える私――飾り気のない服に手帳を抱えただけの没落令嬢を一瞥し、まるで屋敷の雑用係でも見るような底意地の悪い視線を投げてくる。
「閣下」 クイルは、気取った鼻にかかる帝国語の発音で語り始めた。
「請求書に用いられた『湿地保全税』とは、物理的な湿地を指すものではなく、ライン条約第四条に定められた慣習的な通行地役権を意味する法的な用語にございます。……そちらの控えの女性は、帝国の高度な法制語彙の柔軟性をご存じなかったようで」
子爵が得意げに胸を反らせた。勝負はついたと確信した顔だ。
だが、オウレル大使は瞬きひとつしなかった。 彼はわずかに首を傾げ、肩越しに私を見上げた。 その声は極めて低く、どこか退屈そうにすら響いた。
「――ハートウェル。その青二才を片付けろ」
ゾク、と背筋に心地よい震えが走った。 他人の文章の間違いを見つけた時と同じ、あの指先が熱くなる感覚だ。
私は手帳を開き、二歩前に進み出た。
「恐れ入ります、クイル通訳官」 淑女教育で教わった、最も丁寧で静かな声を作って問いかける。 「貴殿が引用されたのは、ライン条約の第四条で間違いございませんね?」
「ええ、いかにも」クイルは自信満々に鼻を鳴らした。「揺るぎない国際慣例です」
「五十年前に締結されたライン条約の第四条は、河川デルタ地帯における『水上輸送』にのみ適用される特例条項です。陸上馬車輸送には一切適用されません。さらに申し上げますと、貴殿が地役権だと主張された接尾辞『-zins』は、昨年の帝国正書法改革において公式契約書での使用が全面的に廃止・無効化されております」
クイルの貼り付いた笑みが、ピキリと凍りついた。 「な……それは、単なる学術的な枝葉末節の議論であって……」
「枝葉末節ではありません。法規範です」 私は息を継ぐ暇も与えずに畳みかけた。
「帝国商法に基づき、失効した条項を公文書で濫用された場合、当館には第十二条を行使する権利が発生します。すなわち、帝国の軍事測量官を派遣し、三日以内に現地の検問所を実地調査する権利です」
子爵がぎょっとして目を見開いた。 「ぐ、軍事測量官だと!?」
「はい、子爵閣下。そして測量官が現地に赴けば、貴国の検問所が国境協定の許容範囲より三キロメートルも外側に不法占拠して建てられている事実が露呈します。これは領土侵犯とみなされ、王室には金貨五百枚の制裁金が課されることになりますが……小麦の八十枚と、どちらをお支払いになられますか?」
応接室が、凍りついたような静寂に包まれた。
ブラッドリー子爵の顔が、怒りと恐怖でみるみるうちに沸騰していく。 「ク、クイルッ!! 貴様、これは本当なのか!? 条約にそんなことが書いてあるのか!?」
「め、滅相もございません……いえ、その……語釈の解釈次第では、多少の語弊が……」 クイルの唇から血の気が完全に引いていた。
「この役立たずの無能がッ!」 子爵はクイルの胸ぐらを掴まんばかりにして怒鳴りつけると、青ざめた顔でオウレル大使に向き直り、腰が折れそうなほど深く頭を下げた。
「た、大変失礼いたしました、オウレル閣下! 我が省の書類作成における不手際にございます! 正規の修正請求書を本日中に再提出いたしますので、何卒ご容赦を……!」
二人は逃げるようにして、転がるように応接室を飛び出していった。 だが、扉をくぐる直前、クイルが振り返った。
その瞳に宿っていたのは、剥き出しの屈辱と、骨の髄まで染み渡るような毒々しい憎悪だった。この男は、今日のことを絶対に忘れないだろう。
バタバタと遠ざかる足音が完全に消えた後、オウレル大使がゆっくりと立ち上がった。
彼は私の足元を一瞥した。
「……その靴、いくらした?」
「銀貨二枚にございます、閣下。中古品ですが、つま先と靴底の補強に銅貨を数枚追加いたしました」
「……中古か」
「新品は高すぎますので。それに、私の足は新品かどうかより、雨水が染み込まないことのほうを重視しております」
大使は、見落としそうなほど微かな皮肉の笑みを口元に浮かべると、執務室へと歩き出した。
「領収書は大切に取っておけ。……来週、水晶宮で王妃主催の夜会が開かれる。お前も同行しろ」




