第3話:白パンと本物のバター
私の新しい仕事机の椅子は、まるで氷の塊から削り出されたかのように冷たくて硬かった。
背中はバキバキに凝り固まり、指先は第二関節まで黒いインクで汚れている。そして、姿勢を変えようと少しでも足を動かすたびに、靴底に敷いた厚紙が情けない音を立てた。
――ペチャ、ギュッ。
その音が部屋に響くたび、私は横目で部屋の中央にある豪奢なマホガニーの机を盗み見た。
オウレル特命全権大使は、彫像のように背筋を伸ばしたまま、完全な沈黙の中で公文書に目を通し、淡々と署名を走らせている。靴の音に対して舌打ちすることもしなければ、文句を言うこともしない。だが、その冷徹な無関心さは、怒鳴り散らされるよりも何倍も胃に悪かった。
(集中、集中よミナ。正午までに四十通の記録をまとめるの)
与えられた書類は、王国南部から届いた帝国大使館向けの穀物および小麦粉の輸入記録だった。
一見すると、退屈でありふれた事務書類にしか見えない。けれど、二十通目を過ぎたあたりで、私はなぜこれまでの通訳官たちがことごとく初日でクビになったのかを理解した。
王国の港湾役人どもは、ずる賢く立ち回りすぎていたのだ。
大使館の職員の多くが王国の古い商慣習に疎いことをいいことに、彼らは難解な古典語と帝国の草書体を巧妙に混ぜ合わせ、関税や手数料を不当に吊り上げていた。
例えば、二十七番目の書類。 役人は『湿地保全税』という帝国語の項目で、銀貨二百枚もの不当な請求を計上していた。
添付された輸送ルートの地図を見る。小麦を積んだ馬車が通ったのは、乾燥して舗装された平野の街道だけだ。周囲五十キロ以内に、湿地など一坪たりとも存在しない。
製粉の手数料を示す正しい用語は『製粉税』だ。この二つの単語は、草書体で書くと母音の線の引き方がほんのわずかに違うだけで、ほとんど見分けがつかない。役人は文字のカスレを装って、帝国から本来の三倍以上の金を巻き上げようとしていたのだ。
喉が鳴った。壁の時計を見上げる。十一時四十分。
(……指摘すべきかしら?) (でしゃばりだって怒られる?) (ただ数字を書き写せばいいって言われるかも……)
けれど、今朝の大使の言葉が頭をよぎった。『痛烈な真実に耐えられない泣き虫は不要だ』。
私は椅子を引いて立ち上がった。――ギュッ、と靴が鳴る。 まとめた報告書を手に、執務机の前まで歩き、きっちり二歩手前で足を止めた。
「閣下」
オウレル大使は手元から視線を上げない。 「正午まであと二十分あるぞ、ミス・ハートウェル」
「四十通すべての書類の分類と要約が完了いたしました」
さらさらと紙を滑っていた羽ペンが、ぴたりと止まった。 大使が薄い灰色の瞳をゆっくりと上げる。魂の重さを値踏みするような、鋭い視線。
「もう終わったのか。前任の三人は丸二日かけて、数字をただ書き写しただけのゴミの山を提出してきたが」
「彼らは数字を翻訳しただけです。私は、そこに書かれている『意味』を読みました」 私は赤ペンで注釈を入れた要約書を机の端に置いた。
「港湾局からの請求総額を、金貨約八十枚分減額できるかと存じます」
オウレル大使の眉が、わずかに動いた。 「八十枚?」
「王国の関税役人が、運送費の項目で三箇所ほど『偶然の筆の誤り』をやらかしております。乾燥した街道しか通っていない穀物に湿地保全税をかけ、大麦の袋数に偽の複数形を使って二重請求し、さらには陸上輸送の小麦を海上輸送の重量単位で計算して差額を着服しようとしています」
沈黙が部屋を満たした。 大使は無言のまま私の報告書を引き寄せ、原本と突き合わせながら一行ずつ確認していく。
驚きも、怒りも、称賛も顔には出さない。ただ冷徹で、正確な確認作業。
やがて、彼は書類を机に置いた。
「並の通訳なら、言われた通りに清書して私に過払いの小切手を切らせていたところだな」 平坦な声だった。
「文脈を理解しない通訳など、ペンを握れるだけのオウムに過ぎませんから」
思ったことがそのまま口から滑り出た。言ってから「しまった」と息を呑んだが、もう遅い。
だが、大使は怒るどころか、その氷のような瞳の奥に、わずかな興味の光を宿して私を見つめていた。
彼は机の脇の炭火で温められていた銀のポットに手を伸ばすと、湯気を立てる黒茶をカップに注ぎ、私の前へと押しやった。
「飲め。手が冷え切って死人のような色配をしている。私の絨毯にインクをこぼされたら迷惑だ」
「……あ、ありがとうございます、閣下」
差し出されたお茶は、砂糖の一粒も入っていない、苦くて濃い帝国特有の味だった。けれど、かじかんだ喉を通っていくその熱さは、何よりも身体に染み渡った。
「午後からは通関契約書の山が二つある」 大使は再び自分のペンを取り上げた。
「王国外務省の不正をさらに見つけ出せば、銀貨一枚の特別手当を出す。逆に見落としがあれば、損失はお前の給与から差し引く」
「承知いたしました」
私は湯気の立つカップを手に、自分の小さな机へと戻った。 それからの午後は、海事用語、穀物規格、そして蝋封の山と格闘している間に、あっという間に過ぎ去っていった。
◇
柱時計が低く五回鳴り、午後五時を告げた。 オウレル大使はペンを置き、引き出しから四枚の重みのある銀貨を取り出して机に並べた。
「日給三枚。港湾の不正を見抜いた手当が一枚だ。受け取って帰れ」
私は歩み寄り、冷たい銀貨を握りしめた。
ずっしりとした金属の重みが手のひらに伝わってくる。銀貨四枚。普通の労働者なら一週間近く働いてようやく手にする大金が、今、私の手の中にある。
「心より感謝申し上げます、閣下。明日も朝八時に参ります」
一礼して部屋を出ようとした時、背後から低い声が私を引き止めた。
「ミス・ハートウェル」
振り返ると、大使はすでに書類を革鞄にしまい終えたところだった。
「帰りに、まともな靴を買え。その濡れた厚紙が鳴らす間抜けな足音は、私の集中を大いに削ぐ」
カッと頬に血が上るのを感じた。 「……はい。失礼いたします」
逃げるように大使館を飛び出した。
雨はいつの間にか止み、冷たい夕暮れの風が通りを吹き抜けていた。 足の指先の冷たさも、泥水で濡れた靴下も、今の私にはどうでもよかった。
中央広場の角にあるパン屋の前に駆け込む。 薪窯から漂ってくる焼きたての香ばしい匂いに、泣きそうになった。
「白パンのバゲットを二本ください!」 私はカウンターに銀貨を一枚、誇らしげに置いた。
「それと、新鮮なバターもひと壺。……豚の脂をごまかして混ぜていない、本物の黄色いバターをお願いします」
いつもは二日前の固くなったパンの切れ端を銅貨数枚で買っていく私を知っている店主は、目を丸くして銀貨とお釣りを受け渡し、湯気の立つ温かい包みを渡してくれた。
胸いっぱいに温かい包みを抱きしめ、早足で家へと向かう。
ハートウェル男爵邸の扉を開けると、家の中は完全に真っ暗だった。 台所のテーブルで、父が蝋燭すら灯さずに、頭を抱えて座り込んでいた。
足音に気づいた父が、怯えたように真っ赤な目を上げる。
「ミナ……!? 無事だったのかい!? 捕まったりしなかったのか? ……またクビになったんだね? いいんだ、父さんが高利貸しに土下座するから、古い時計を売れば……」
私は湯気を立てるパンの包みとバターの壺を、古い木製テーブルの真ん中にどんと置いた。 続いて、残りの銀貨三枚をその隣に並べる。
チャリン、と澄んだ金属音が暗い部屋に響き渡り、父の動きがぴたりと止まった。
私は椅子を引き、深いため息をつきながら腰を下ろした。
「ランプをつけて、お父様。仕事、決まったわよ。今夜は温かいご飯にしましょう」




