第2話:狼の館の面接
家を出る前、私は食料庫の隅に転がっていた古い厚紙をちぎり、三つ折りにたたんで左足の靴の底に敷いた。
根本的な解決にはならないけれど、少なくとも水たまりの冷たい泥水が親指に届くまでの時間を、十分くらいは稼げるはずだ。
「ミナ、そんなに急いでどこへ行くんだい?」
色あせた部屋着を着た父が、寝癖のついた頭を掻きながら台所から顔を出した。手には、二度も煎じ直した薄い茶の入ったマグカップ。
「ちょっと面接に行ってくるわ、お父様」 「どこへ?」 「……行政区の近くの事務所よ。書類整理の、簡単なやつ」
私は破れた募集用紙を鞄の底に押し込んだ。
もし、王都じゅうが恐れるヴァルトマルク帝国大使館へ面接に行くだなんて口が裂けても言えない。父が腰を抜かして卒倒し、門を出る前に神父を呼ばれるのがオチだ。
◇
王国の街並みは、曲がりくねった石畳と金箔の剥げかけた装飾、古びた石橋でできている。
けれど、『条約通り』の角を曲がって帝国大使館の正面に立った瞬間、まるで別の国に迷い込んだような錯覚に襲われた。
威圧感のある黒灰色の花崗岩で造られた、無駄な装飾の一切ない巨大な建物。槍のように尖った鋳鉄の門扉が周囲を厳重に囲み、門の最上部では双頭の鷲の紋章が、近づく者を鋭い眼光で見下ろしている。
志願者の列など、影も形もなかった。 建物の前には、人っ子一人いない。
私は大きく息を吸い込み、擦り切れたスカートの皺を伸ばして、通用門の鉄扉を押した。
門番の兵士は、銀のボタンを磨き上げた隙のない灰色の軍服を着ていた。私の手にある薄汚れた募集用紙を一瞥しただけで、ボロボロの服を嘲笑うことも、値踏みするように見下すこともしない。ただ、荷物の検問をするような冷淡さで紙の刻印を確認し、顎で本館の入口を示した。
「三階の突き当たりだ。壁の絵画には触れるなよ」
大使館の内部は、床のワックスと苦い黒茶、そして新しいインクの匂いが充満していた。
軍隊じみた静寂が廊下に張り詰めている。革張りの書類挟みを抱えた職員たちが早足で行き交うが、誰一人として無駄口を叩かず、笑い声ひとつ漏らさない。ここにいる全員が、帝国の威信という名の重圧を背負って歩いているようだった。
三階の突き当たり、重厚な樫の扉の前に立つ。 真鍮の小さなプレートには、『特命全権大使執務室』とだけ刻まれていた。
コン、コン、コン、と三回ノックする。
「入れ」
中から返ってきたのは、王国の言葉だった。だが、まるで剃刀の刃先のように無駄がなく、研ぎ澄まされた発音だった。
ノブを回して足を踏み入れる。
部屋は広大だった。天井近くまで届く大きな窓からは王都の運河が一望でき、壁一面の本棚には分厚い革装丁の書物や地図、几帳面に分類された公文書がぎっしりと並んでいる。
部屋の主――オウレル全権大使は、大きなマホガニーの机に向かい、背筋を真っ直ぐに伸ばして座っていた。
年齢は二十代半ばといったところだろうか。短く整えられた黒髪に、井戸の底から汲み上げた氷のように冷たい、薄い灰色の瞳。派手な勲章の類いは一切身につけず、黒い立襟の上着の襟元に、銀の帝国鷲のピンだけを留めている。
私が室内に入っても、彼は書類に走らせる黒い羽ペンを止めることすら、視線を上げることすらしなかった。
「私の時間を無駄にする理由を、三十秒で述べろ」
さらさらと紙を走るインクの音とともに、冷淡な声が落ちてくる。 喉の奥がきゅっと締まった。靴の中の厚紙が、染み込んできた湿気でふやけ始めているのを感じる。
「募集を拝見し、通訳補助の面接に伺いました。閣下」 声が震えないよう、お腹に力を込めて答えた。
そこでようやく、羽ペンの動きが止まった。 オウレル大使がゆっくりと顔を上げる。
その冷徹な視線は、私の顔、継ぎ当てだらけの外套、そして最後に濡れた爪先へと流れた。
「掲示板の警告文は読んだか?」 「はい」 「無能は不要、痛烈な真実に耐えられない泣き虫は門前払いだと書いてあったはずだが」
「募集要項の中で、もっとも分かりやすい一文でした」
彼の口元が、わずかに動いた。 笑みではない。罠にかかった珍しい獲物を前にした、肉食獣の観察するような眼差しだ。
大使は机の上から、王国外務省の封蝋が押された一枚の羊皮紙を取り上げ、私の前へと滑らせた。
「貴国の外交官が、今朝よこした親書だ。『敬意と洗練』を示すつもりか知らんが、拙い帝国語で書き殴ってある。……三行目を声に出して読み、彼が何を要求しているか説明してみろ」
私は羊皮紙を受け取った。 指先はかじかんでいたが、袖口の雨水が紙の端を汚さないよう慎重に持つ。
指定された三行目に目を落とす。 筆跡はこれ見よがしに丸みを帯びていて、気取った雰囲気を醸し出そうとしているのが見え見えだった。けれど、その文面は――。
「……あの、これ」 止めようとする理性より先に、私の口が動いてしまった。 「羊毛の関税交渉をするつもりで、古典接続法の活用を完全に間違えています」
「どう間違えている?」 オウレル大使は机に肘をつき、細長い指を組んだ。
「この特定の語尾変化は、帝国西部の方言におきましては……『隣家の牛と交尾を望む』という宣戦布告の意味になります」
沈黙。 部屋の隅にある大きな振り子時計が、カチ、カチ、と乾いた音を立てて時を刻む。
昨日の商館のように、今すぐ襟首を掴まれて三階の窓から放り出されるのではないかと、私は内心で生きた心地がしなかった。
だが、大使は微動だにしなかった。 ただ、片方の眉がわずかに持ち上がっただけだった。
「では、最後の署名はどうだ」 「爵位の格変化が主格ではなく与格になっております。……自分自身を大臣ではなく、羊の所有物であると名乗っている状態です」
大使の鼻から、短く息が漏れた。 あの男ができる、もっとも笑いに近い仕草だったのかもしれない。
彼は引き出しを開けると、小さな革袋をひとつ取り出し、机の上に放り投げた。 チャリン、と重々しい銀貨の擦れ合う音が静かな室内に響く。
「日給、帝国銀貨三枚。午後五時の勤務終了時に即日支給する。一分でも遅刻すれば半額、公式文書で誤訳をやらかした場合は全額没収した上で馬小屋の掃除を命じる」
私は目を瞬かせた。 「あの……採用、していただけるのですか?」
「腹を空かせた顔をして、左の靴からはみ出た厚紙が見苦しいが、少なくとも頭の回転は悪くない。何より、私の発音に媚びを売ろうとしなかった。今週ここに来た愚か者どもよりは、幾分か使い物になるだろう」
オウレル大使は別の書類を引き寄せると、もう用は済んだとばかりに羽ペンを走らせ始めた。
「お前の席はあそこの隅の小机だ。正午までに、穀物の輸入記録四十通を分類して要約を作れ。直ちに取り掛かるんだな、ミス……?」
「ハートウェルです。ミナ・ハートウェルと申します、閣下」
「無駄口を叩いている暇はないぞ、ミス・ハートウェル。時間はすでに動いている」
私は靴底をきしませながら、部屋の隅にある小さな机へと向かった。 背もたれの硬い椅子に腰を下ろし、最初の一枚を手にとって、ガラスのインク壺にペン先を浸す。
仕事が決まった。 雇い主は冬の夜風のように冷酷な男で、ミスをすれば魂まで削り取られそうだけれど、日給で銀貨三枚を現金で払ってくれる。
今夜は何か月ぶりかで、お父様と本物のバターを塗ったパンが食べられそうだ。




