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第6話:曇りのない窓ガラス


エドマンド王太子が悔しげな足音を立てて去った後、水晶宮の温室回廊には、なんとも言えない気まずい静寂が漂っていた。


貴族たちは遠巻きにこちらを伺い、扇の陰からひそひそと囁き合っている。けれど、オウレル大使は気にした風もなく、銀のトングで冷えた果実をひとつ皿に取ると、淡々と口に運んだ。


「……閣下。周囲の視線が、針の山のように突き刺さっているのですが」 私が小声で進言すると、大使は眉ひとつ動かさずに紅茶を一口すすった。


「見たい奴には見せておけ。視線で人が死ぬなら、私は十歳になる前に三千回は墓の下に入っている」 「それは頼もしい限りでございます」


そんな軽口を交わしていた、その時だった。


「まあ、ずいぶんと賑やかなご挨拶があったようですわね」


回廊の奥から、鈴の音のように澄んだ、だが芯の通った声が響いた。 取り巻きの貴族たちが一斉に左右へ割れ、深々と頭を垂れる。


現れたのは、淡い藤色のシルクドレスを纏った貴婦人だった。

年齢は四十代半ばほど。優雅に波打つ銀灰色の髪に、一切の乱れのない完璧な立ち居振る舞い。エドマンド王太子の母であり、この王国の実質的な舵取りを担う人物――マリアンヌ王妃その人だった。


オウレル大使が、右手を胸に当てて帝国の流儀で一礼する。 私もすぐさま、その斜め後ろで完璧な角度のカーテシーを取った。


「マリアンヌ王妃陛下。息災なご様子で何よりです」

「ええ、オウレル大使。相変わらず、貴方の周りだけは冬の嵐のように鋭い空気が流れていますこと。……先ほど、我が愚息が大変な非礼を働いたようで、母として心からお詫び申し上げますわ」


王妃はそう言って、微かに眉を下げてみせた。 けれど、その青い瞳の奥には、息子の不始末に対する激怒ではなく、冷徹な観察者の光が宿っている。


「若気の至りにございます。婚約者殿の機転により、実害は防がれましたので」 大使が平然と返すと、王妃はふふ、と喉の奥で笑った。


「コーデリアは優秀すぎるのが玉に瑕ですわ。あの子の正しさは、時に刃のように人を傷つける。……ですが、我が国の外務省の役人たちよりは、遥かに頼りになりますけれどね」


王妃の視線が、すっと滑るように私へと移った。 心臓が跳ねるのを、ドレスの下で必死に抑え込む。


「ところで、大使。そちらの可愛らしいお連れの方は? 今月だけで六人もの通訳官を初日で追い出した貴方が、若い令嬢を宮廷のお茶会に同伴させるなど、前代未聞ですけれど」


「当館の専属通訳官、ミス・ハートウェルです」 大使が短く紹介した。


王妃は目を細め、私の濃紺のビロードドレスと、胸元の銀の留め具をつぶさに検分するように見つめた。

「……ハートウェル。ああ、あの古い男爵家ですね。お父上はお元気かしら? たしか、南部の街道整備の投資で手痛い失敗をされたと聞いておりますけれど」


王家の情報網は、没落貴族の懐事情まで完全に把握しているらしい。 私は下腹部にぐっと力を込め、視線を伏せすぎないよう注意しながら答えた。


「父は息災に暮らしております、王妃陛下。身に余るお言葉、光栄に存じます」


「貴女のような若い娘が、祖国ではなく他国の大使館で言葉を売る。……社交界の意地の悪い者たちは、それを『不忠』や『裏切り』と呼ぶかもしれませんわね。そのことについて、どうお考えかしら?」


試されている。 明確に、私の覚悟と知性を試すための問いだった。

少しでも祖国への未練を覗かせれば「大使の通訳として不適格」と見なされ、逆に祖国を貶めれば「不義理な売国奴」として王国内での居場所を完全に失う。


私は、昨夜考え抜いた自分の信条を、静かに口にした。


「言葉に国境はございますが、真実に偏りがあってはならないと心得ております」


王妃の眉が、わずかに動いた。


「通訳官の役目は、磨き抜かれた窓ガラスのようなものにございます。庭の景色が祖国のものであろうと、他国のものであろうと、私の仕事はただ、歪みや埃を取り除いてありのままを届けること。どちらか一方に都合のいい色を塗った瞬間、ガラスは鏡となり、向こう側の真実を見失ってしまいます」


息を呑むような静寂が、私たちの間に落ちた。 オウレル大使は何も言わず、ただ横目で私の顔を見ている。


やがて、マリアンヌ王妃の口元が、ゆっくりと弧を描いた。 それは先ほどの社交辞令の笑みとは違う、本物の愉快さを孕んだ笑みだった。


「……磨き抜かれた窓ガラス、ですか。素晴らしい矜持ですわね」 王妃は扇を胸元でパチンと鳴らした。

「我が国の宮廷には、自分を美しく見せるための曇った鏡ばかりが並んでいて、まともな窓が一枚もありませんの。エドマンドの取り巻きたちにも、貴女の爪の垢を煎じて飲ませたいくらいですわ」


王妃は一歩近づくと、私にだけ聞こえるような小さな声で囁いた。


「気をつけなさい、ミス・ハートウェル。透明すぎるガラスは、向こう側がよく見えるがゆえに、鳥がぶつかって割れることもあります。……特に、我が息子の周りに群がる欲深い羽虫たちにはね」


「……身に余るご忠告、心に刻みます」


「良き午後を、オウレル大使。帝国との穀物関税の件、当方の役人の非礼は追って正式に処罰いたしますわ」

王妃は優雅に踵を返すと、侍女たちを引き連れて陽光の差し込む回廊の向こうへと去っていった。


◇


大使館へ戻る馬車の中。 ガタゴトと車輪が石畳を叩く音だけが響く個室で、私は座席の背もたれに深く身を沈め、今日一番の長いため息を吐き出した。


「はぁぁぁぁ……死ぬかと思いました……」


背筋をピンと伸ばしていた緊張の糸が切れ、両肩が情けないほど落ちる。靴の中で、足の指先がじんじんと痛んでいた。


向かいの席に座るオウレル大使が、冷淡な眼差しをこちらに向けた。 「王妃の前で見せたあの威勢はどこへ行った、窓ガラス」


「あれはハッタリです! 心臓が口から飛び出して、シャンパングラスの中に落ちるかと思いました!」

両手で顔を覆って叫ぶ私を見て、大使は呆れたように小さく鼻を鳴らした。

だが、その声にはいつもの刺々しさはなかった。


「上出来だった。王妃はお前を気に入ったようだぞ」 「気に入られたというよりは、危険人物としてマークされた気がするのですが……」


「どちらでも同じことだ。宮廷では、無視される無能より、警戒される有能の方が生き残りやすい」


大使は懐から、蝋封の施された小さな革の手帳を取り出し、私の膝の上に放り投げた。


「これは……?」 「今日の手当だ。それと、王国外務省が極秘裏に進めている『南部鉱山の採掘権に関する覚書』の写しだ」


手帳を開くと、中には銀貨五枚とともに、走り書きのような暗号混じりの書類が挟まれていた。


「来週から、この書類の解読に入る」 オウレル大使は窓の外、暮れなずむ王都の街並みを見つめながら、氷のように鋭い声で言った。

「王太子派の貴族どもが、帝国の息がかかった鉱山を不法に接収しようと企んでいる。……お前のその磨かれたガラスで、奴らが隠したがっている泥をすべて暴き出せ」


膝の上の銀貨の重みを感じながら、私は姿勢を正した。 お茶会の華やかな時間はおしまいだ。明日からはまた、言葉の裏に隠された嘘を暴く、泥臭い戦いが始まる。


「――喜んで、閣下」


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