第五章 思考
人は毎日、何かを考えて生きています。
ですが、“思考しているつもり”になっているだけの人間も多い。
考えるとは何なのか。
今回は、そんな“思考”についての持論を書きました。
思考とは何か。
私見では、
“過去と未来を扱う行為”である。
人は現在を起点として生きている。
そして思考とは、
その現在から「過去」と「未来」を導き出す行為だ。
過去。
未来。
人間はこの二つを使い分けながら生きている。
ただ漠然と悩むだけでは、
思考とは呼べない。
それは不安であり、
迷いであり、
時間の浪費に近い。
思考とは、
本来もっと実用的なものだ。
突発的な出来事へ対応する際、
人は過去を用いる。
経験。
知識。
記憶。
人間は、
過去に蓄積した情報を基に、
答えを導き出している。
一方で、
未来へ備える際には予測を用いる。
想定。
可能性。
違和感。
つまり思考とは、
「経験」と「予測」を往来する行為なのである。
極めて単純な構造だ。
しかし多くの人間は、
これを理解していない。
なぜか。
誰も教えないからである。
学校は答えを教える。
だが、
“答えへ辿り着くための思考”は教えない。
だから人は、
考える前に正解を探し始める。
私はそれが少し怖い。
正解は便利だ。
迷わなくて済む。
責任を持たなくて済む。
だが、
自分で導き出していない答えは、
時々簡単に崩れる。
だからこそ私は、
あなた方に考えてほしい。
正解ではなく、
“自分自身の答え”を持ってほしいのである。
答えは指標になる。
迷った時、
自分を支える一本の軸になる。
ゆえに人は、
自分の中へ答えを持たなければならない。
もっとも、
それすら随分曖昧なのだが。
私は、
考え事をする時、
よく歩く。
歩いていると、
頭の中が少し整理されるからだ。
夜道。
コンビニの灯り。
信号待ち。
そんな時間の中で、
私は過去を引っ張り出している。
あの時、
違う言葉を選んでいたら。
あの時、
逃げていなかったら。
そんな事ばかり考える。
結局私は、
未来を考えているようで、
過去に囚われ続けているのかもしれない。
私は、
過去が好きだ。
だが同時に、
少し怖い。
思い出したくない過去がある。
忘れてしまいたい会話もある。
それでも、
知識として残っている。
だから私は、
同じ轍を踏まないように生きている。
「少し辛いです」
「……いや、やりません」
そう言えるようになった。
昔の私なら、
きっと無理をしていた。
だから過去は、
確かに今の私を支えている。
好きなのに怖い。
随分矛盾していると思う。
だが、
人間とはそういうものなのかもしれない。
痛みを抱えたまま、
それでも過去を使いながら生きていく。
結局私は、
過去に苦しめられながら、
過去によって前へ進んでいるのだ。
では未来はどうか。
未来は、
好きでも嫌いでもない。
確定していないからだ。
いくら予測しても。
いくら考えても。
思い通りになるとは限らない。
そう考えると、
未来は楽しいものというより、
少し目を背けたくなるものに近い。
だが実際、
その場面になると、
私は結局見てしまう。
人の目。
表情。
顔の角度。
声の温度。
笑ってくれているのか。
理解してくれているのか。
一緒に働いてくれるのか。
そんな事ばかり考えている。
だが私は、
その予測が本当に当たっていたのか知らない。
確認する術がないからだ。
だって俺は、
君じゃない。
結局人間は、
最後まで他人の中身を理解できない。
だからこそ、
人は観察し、
予測し、
考え続けるのかもしれない。
私は時々、
周囲の上司から期待される事がある。
「夕暮くんは、
上の役職に向いてるよ」
「いい上司になれると思う」
「もっと上を経験した方がいい」
そんな言葉を掛けられる。
お世辞だと思っている。
その場の空気を良くする為の、
社交辞令みたいなものだ。
だが、
分かっているのに、
少し嬉しい自分がいる。
だから厄介なのだ。
期待されると、
私は考え始めてしまう。
自分が部下を持つ姿。
誰かを評価する立場になる未来。
指示を出し、
責任を背負い、
人を管理する自分。
だが、
どうしても向いていると思えない。
私は、
誰かを評価できるほど立派な人間ではない。
人を見ることと、
人を導くことは違う。
むしろ私は、
考えすぎるからこそ不向きなのだと思う。
相手の表情。
声色。
空気。
そういうものばかり気になってしまう。
だから時々、
考えることをやめたくなる。
未来を見ないまま、
ただ働いていたくなる。
成功する自分を想像するのは、
私にとって、
時々“思考停止”に近い。
都合の良い未来ばかり見始めた瞬間、
人は現実を見なくなる気がするからだ。
だから私は、
期待されることが少し怖い。
嬉しいのに、
怖い。
結局私は、
また矛盾したまま生きている。
例えば新人教育もそうだ。
入社一ヶ月目の人間へ仕事を教える。
本来であれば、
教える側は過去を用いる。
自分が失敗した経験。
躓いた記憶。
理解できなかった感覚。
それらを基に、
言葉を選ぶ。
そして相手の反応を見る。
理解したのか。
困っているのか。
何が分からないのか。
その反応を見て、
未来を予測する。
「次はこう教えよう」
「この説明では伝わらない」
そのようにして、
人は本来思考するのである。
しかし、
それができない人間も多い。
なぜか。
見ていないからである。
さらに言えば、
“見る必要がない”と、
経験が判断しているのである。
人は、
自分に必要のないものを見ようとしない。
だから盲目になる。
思考しない人間とは、
考えない人間ではない。
見ない人間である。
ここで重要なのは、
“考える”ことではない。
見ることである。
見なければ、
気付けない。
見なければ、
知ることもできない。
見なければ、
予測すらできない。
世界を見る。
人を見る。
自分を見る。
そこから全ての思考は始まる。
だが時々、
私は思考に疲れる。
考えても答えが出ない事がある。
愛もそうだ。
人間もそうだ。
未来を予測しても、
結局何も分からない瞬間がある。
時々、
何も考えたくなる。
音楽を流して。
ぼやけた景色を見ながら。
ただ歩いていたい時がある。
だが結局、
私はまた考え始める。
人間とは、
案外思考をやめられない生き物らしい。
それでも人は、
考えることをやめられない。
不安だからだ。
見えない未来が怖いからだ。
もっとも、
私自身も見ることに関しては未熟である。
見たくないものから目を逸らし、
理解したつもりになりながら、
こうして言葉を書き続けている。
だからこそ、
偉そうなことを言う資格はない。
それでも私は願う。
どうか、
“見えないまま生きる人間”にならないでほしい。
見ようとすることを、
諦めないでほしい。
たとえその先に、
少し苦しい現実が待っていたとしても。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
思考とは、とても難しいものだと思っています。
人は考えているようで、案外何も見ていない。
だからこそ、思考する為には“見る”という行為が必要なのかもしれません。
私自身、まだまだ未熟です。
それでも、少しずつでも世界を見ようとは思っています。
次章でも、また別の“持論”を書いていきます。




