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第六章 普通

「普通」という言葉が、

私は時々少し怖い。


今回の話は、

そんな違和感についてです。

普通とは、

異常な現象への慣れである。


腹が減れば飯を食う。


眠くなれば眠る。


疲れていても仕事へ向かう。


本来なら苦しいはずのことへ、

人は少しずつ適応していく。


そして気づけば、

壊れかけた日常すら、

“普通”と呼び始める。


テレビの中で、

今日も誰かが死んでいる。


事故。


事件。


戦争。


災害。


人は、

それを見ながら飯を食う。


「かわいそう」


「報われない」


「警察は何をしているんだ」


「もっと救助を増やせないのか」


どれも普通の感想だ。


最初は胸を痛めても、

人は次第に慣れていく。


遠い場所の痛みは、

少しずつ日常へ溶けていく。


そして、

実際に助けへ向かう人間が現れた瞬間、

人はその行為を特別扱いする。


「すごい」


「立派だ」


「優しい人だ」


称賛は簡単に集まる。


だが今では、

その善意すら炎上する時代になった。


人は、

善意にも慣れてしまう。


異常にも。


悪意にも。


気づけば、

昨日まで特別だったものが、

今日の普通へ変わっていく。


かく言う私も、

その“普通”の一部である。


私は会社まで歩いて通勤している。


時間にすれば、

二十分か二十五分ほどだ。


イヤホンで音を遮断する。


何も考えなくて済むからだ。


時々、

少しだけ音量を下げる。


すると今度は、

逆に考え事が始まる。


それも嫌いではなかった。


普段掛けている眼鏡を外して歩くこともある。


視界がぼやける。


そのくらいの方が丁度いい。


周囲を細かく見なくて済むからだ。


背中に滲んだ汗が、

風で冷えていく感覚も嫌いではない。


冬はもっといい。


少し歩きづらい。


だが、

その微々たる不便さが、

私へ時間をくれる。


季節を感じると、

時の流れを感じる。


今日も普通だったのだと、

少し安心する。


そして会社へ着く。


従業員用の、

少し安いコーヒーを買う。


温い苦味を口へ流し込むと、

私は仕事用の顔を作り始める。


仮面を被るみたいに。


だが時々、

その仮面は少しズレる。


余裕がない時。


疲れている時。


私は驚くほど無愛想になる。


必要なものだけを見て、

必要な会話だけを返す。


そんな自分と話している職場の人間へ、

時々申し訳なさを感じる。


だが、

気づいた時にはもう遅い。


私はまた、

仮面を付け直す。


社会の中にいる以上、

完全に一人にはなれないからだ。


私は時々、

怖くなる時がある。


この世界で生きる為に、

私は三つの自分を使い分けている気がする。


一つは、

会社の私。


嫌われないように。


はみ出さないように。


周囲へ馴染むように生きる私。


二つ目は、

外向きの私。


人混みに紛れる私。


異常を起こさないよう、

一般人みたいに振る舞う私。


そして三つ目は、

一人の私。


イヤホンを付け、

煙草の煙を吐きながら、

静かな夜道を歩く私。


考え込むことだけが、

少し得意な私。


問題は、

その三つが時々混ざることだ。


楽しく会話している私は、

本当に私なのか。


夜道を歩きながら、

静かな時間を愛している私は、

どれほど本物なのか。


人混みを避けながら歩く私も。


笑う私も。


黙る私も。


全部、

私なのだろうか。


時々、

自分の芯が曖昧になる感覚がある。


どこまでが仮面で、

どこからが私なのか分からなくなる。


私は時々、

“普通”を演じることに疲れる。


「お疲れ様です」


社会人になってから、

この言葉を一日に何度も使うようになった。


疲れていなくても言う。


相手を労っていなくても言う。


気づけば、

言葉ではなく、

ただの音みたいになっていた。


愛想笑いもそうだ。


面白くなくても笑う。


空気を壊さない為に笑う。


気まずくならないように笑う。


笑うタイミングを考える。


沈黙が長くなりそうなら、

適当に相槌を打つ。


気づけば、

会話ではなく、

作業みたいになっていた。


そうやって人は、

少しずつ“普通”へ馴染んでいく。


私は学生の頃から、

人に合わせる癖があった。


歩幅。


声色。


目線。


帰り道。


気づけば、

自分より他人を優先している。


それが悪い事だとは思わない。


だが時々、

自分が何を考えていたのか分からなくなる。


人は、

環境へ適応する。


社会へ適応する。


他人へ適応する。


そして最後には、

適応した自分を“普通”だと思い始める。


だが、

そんな日々の中で、

時々ふと思うことがある。


会社の人間と話して、

愛想笑いをしている時。


私は本当に、

少しだけ楽しいと感じている瞬間がある。


こんな文章を書いているくせに。


人間を面倒だと思っているくせに。


それでも時々、

肩の荷が下りる瞬間があるのだ。


仮面を被ったまま。


いや、

もしかすると私はもう、

仮面がズレている状態そのものへ、

慣れてしまったのかもしれない。


そして時折、

四つ目の私が顔を出す。


私は、

仕事への熱意を“熱”で考える癖がある。


工場で働いていた頃もそうだった。


燃えて。


燃えて。


また燃えて。


気づけば、

灰みたいになっていた。


その頃の私は、

「死にたい」と口にしていた。


本気だったのかは、

今でも分からない。


だが確かに、

あの頃の私は壊れていた。


そんな私へ、

今でも関わってくれる人間がいる。


優しい上司。


友人。


声を掛けてくれる人達。


時々、

分からなくなる。


どうして、

こんな人間へ関わろうとするのだろうと。


優しさへ甘えている感覚が、

少し怖い。


私は今も、

普通になろうとしている途中なのかもしれない。


それとも既に、

普通へ慣れ過ぎてしまっただけなのか。


最近は、

その違いすら、

少し分からなくなってきた。


それに、

こうして自分の思想を書いている私も、

それを読んでいるあなたも、

今この瞬間、

普通の中にいる。


私の書く言葉は、

どれも特別なものではない。


疲れた話。


人間が分からない話。


社会に慣れてしまう話。


言ってしまえば、

これはただの日記みたいなものだ。


今日も少し、

生きづらかったという記録である。

ここまで読んでくださり、

ありがとうございました。


普通へ慣れていくことは、

安心なのか、

それとも摩耗なのか。


最近は、

その違いが少し分からなくなってきました。

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