第四章 愛
愛という言葉は、とても綺麗です。
だからこそ、私は少し苦手です。
人は簡単に「愛している」と口にします。
ですが、その言葉の重さを、本当に理解できている人はどれほどいるのでしょうか。
今回は、そんな“愛”についての持論を書きました。
愛とは、
概念に過ぎない。
私から言わせれば、
酷く不安定で、
曖昧で、
実体のないものだ。
もっと正直に言うなら、
私は愛という言葉をあまり信用していない。
随分と冷めた考え方だと思う。
だが、
これが今の私の結論だ。
世の中には、
愛を美しく語る人間が溢れている。
愛は素晴らしい。
愛は人を救う。
無償の愛こそ尊い。
実に綺麗だ。
綺麗すぎて、
時々少し息苦しくなる。
そもそも愛とは何だ。
人は簡単に、
「愛している」と口にする。
だが、
その正体を説明できる人間を、
私はまだ見たことがない。
愛に溺れる。
愛は人を盲目にする。
そう語られる時点で、
既に正常ではない気がしてしまう。
理性を壊し、
判断を狂わせ、
時に人生そのものを歪める。
それのどこが美しいのだろうか。
しかも厄介なのは、
愛は一人で成立しないことだ。
幸福は、
一人でも完結できる。
趣味も、
思想も、
孤独の中で成立する。
だが愛は違う。
必ず、
他人が必要になる。
つまり愛とは、
“他人に依存した感情”である。
私はそこが少し苦手だ。
人は、
「愛を与える」などと簡単に言う。
だが本当に、
そんな綺麗なものだろうか。
愛とは、
自分の内側だけで完結できる感情ではない。
相手が存在し、
相手が受け取り、
相手が反応して、
初めて成立する。
つまり愛とは、
極めて不自由な感情なのだ。
そして愛には、
必ず責任が生まれる。
私は、
そこが一番怖い。
親は子を愛する。
その瞬間、
育てる責任が発生する。
恋人を愛する。
その瞬間、
相手の人生へ踏み込む責任が発生する。
ペットを愛する。
その瞬間、
命を預かる責任が発生する。
愛は綺麗事では終わらない。
必ず、
責任へ変わる。
以前、
上司にこんな事を言われた時がある。
「夕暮桜は、
連帯責任になると自分を追い込みすぎる」
確かにそうかもしれない。
自分だけの責任なら、
案外どうでもいい。
怒られるだけで済むからだ。
だが、
誰かを巻き込む形になると、
私は急に苦しくなる。
迷惑を掛ける。
空気を悪くする。
誰かの時間を奪う。
その感覚が、
妙に重い。
だから私は、
必要以上に背負おうとしてしまう。
今思えば、
あれも一種の愛だったのかもしれない。
だが、
そう考えると余計に分からなくなる。
私は、
愛に鈍感な気がする。
本気で恋をしたこともない。
這いつくばるほど、
誰かを求めたこともない。
だから時々、
分からなくなる。
私が愛を知らないのか。
それとも、
気づいていないだけなのか。
高すぎるハードルだと思い込んでいるのか。
逆に、
低すぎて見えていないのか。
私の目の前には、
ハードルの板が見えない。
潜っているのか。
歩くみたいに越えてしまっているのか。
私には分からない。
好きと、
恋と、
愛には、
大きな乖離がある。
少なくとも、
私にはそう思える。
私だって、
人を好きになることはある。
後輩を気に掛けていたあの感情も、
きっと“好き”だったのだと思う。
だが、
恋ではない。
……いや、
恋ではないと否定したい自分がいる。
だから私は、
愛という言葉へ抵抗を感じるのだろう。
恋と愛は、
似ているようで違う。
私には時々、
成仏の前後みたいに見える。
満たされないから、
恋をする。
求めるから、
惹かれる。
そして、
互いを受け入れた時、
初めて愛へ変わる。
そんな気がしている。
俺は――いや、
私は、
きっと理解している。
見えていない訳ではないのだ。
ただ、
認めたくないだけなのかもしれない。
私は、
誰かから心配されるのが苦手だ。
「大丈夫?」
その一言だけで、
逃げ出したくなる時がある。
優しさを向けられると、
同じだけ返さなければいけない気がするからだ。
期待される。
覚えられる。
必要とされる。
その感覚が、
時々ひどく怖い。
私は十八の頃に家を出た。
正確に言えば、
母と住んでいた家をだ。
父とは、
二人いる姉と同じように、
十六の頃からほとんど会っていなかった。
あれは確か、
二十歳か二十一の頃だったと思う。
私は一度だけ、
父に会いに行った事がある。
母と出て行った私を、
父は驚くほど普通に迎えた。
「飯……食ってくか?」
「元気にしてたか?」
「力はもう、
お前の方が強いな」
不器用な人だった。
だが、
嫌いではなかった。
そして私は、
その時実感してしまった。
愛されていたのだと。
それが、
妙に苦しかった。
今こうして綴っていても、
喉に何か詰まる感覚がある。
だから私は、
家族に会うのが怖い。
少し、
ではない。
本気で怖い。
会えば、
崩れてしまいそうになるからだ。
泣くと思う。
人目も気にせず、
情けないほど泣く気がする。
私はずっと、
一人で生きてきたつもりだった。
誰にも頼らず。
誰にも甘えず。
そう思っていた。
だが、
もし本当は違ったのだとしたら。
私は、
今まで何を支えに生きてきたのだろう。
死にたいと思った時。
壊れそうだった時。
もし隣に、
家族がいたら。
私は、
弱くなってしまう気がする。
……いや、
違う。
本当は、
弱くなりたいのかもしれない。
その感覚が、
たまらなく怖い。
これは比喩ではない。
本物の恐怖だ。
だから私は、
愛を美しいと思い切れない。
私には、
到底背負いきれないからだ。
人は愛を神聖視する。
だが私には、
人間が「責任」に名前を付けて、
誤魔化しているように見える時がある。
愛という言葉へ変換しなければ、
この重さに耐えられないのだろう。
そう考えると、
愛とは随分都合の良い概念である。
だが――。
それでも人は、
愛を求める。
愛されたいと願う。
結局、
人間は一人では生きられないからだ。
私はこの言葉を使いたくない。
使えば、
自分の思想が崩れる気がするからだ。
だが事実として、
人は“愛されていた”と気付いた瞬間に、
幸福を知る。
愛は、
特別なものではない。
むしろ普通だ。
家族。
友人。
恋人。
何気ない会話。
心配されること。
帰る場所があること。
本来、
人は愛の中で生きている。
だが人間は愚かだから、
それを失うまで気付けない。
幸福と同じだ。
だから私は時々、
誰かへ聞きたくなる。
この答えは、
合っているのかと。
随分滑稽だと思う。
答えを求める人間を、
どこか嫌っていたはずなのに。
結局私も、
同じように、
救いみたいな答えを望んでしまうのだから。
そして私は、
未だに愛を理解し切れない。
だからきっと、
幸せになりきれないのだろう。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
愛という感情は、とても不自由だと思っています。
だからこそ、人は苦しみ、執着し、時に壊れてしまう。
それでも人が愛を求め続けるのは、結局、人間が一人では生きられない生物だからなのかもしれません。
次章では、また別の“持論”について書いていきます。




