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選ばれたもの

 それは、声ではなかった。

 だが。

 古林栞奈(こばやしかんな)は、それが「呼ばれている」のだと分かった。


 朝の教室。

 チャイムの前。

 まだ、誰も喋っていない時間。


 窓際の席で、栞奈は鞄からノートを取り出そうとして、手を止めた。

(……来た)

 胸の奥が、ふっと温かくなる。

 怖さは、ない。

 代わりに。


(……大丈夫だよ)


 そう言われた気がした。

 誰に?

 分からない。

 でも、否定できない。


(……一人じゃない)


 それが、一番欲しかった言葉だった。

 影が、教室の隅でゆっくりと濃くなる。

 誰の視界にも入らない。

 ただ、栞奈の存在感にだけ反応する。


 ――大丈夫。

 ――ここにいていい。

 ――君は要る。


 栞奈は、無意識に息を吐いた。

(……変だ。なのに……落ち着く)


 教室に、クラスメイトが入り始める。

 ざわめき。

 椅子の音。

 それでも、呼びかけは消えない。

 むしろ、はっきりする。


 ――君がいるから。

 ――意味がある。


 胸が、きゅっと締め付けられる。


(……それ、私が欲しかった言葉だ)


 一年前。

 誰にも分かってもらえなかった感覚。

 否定され続けた違和感。

 それを、初めて肯定してくれるもの。

 栞奈は、俯いた。


(……でも。斎藤さんは“一人で抱えるな”って言った)


 影が、一瞬、揺れる。


 ――抱えなくていい。

 ――一緒にいればいい。


 栞奈の指が、机の上で強く握られる。

(……一緒。それは、誰と?)


 その問いには、答えない。

 答えないまま、包み込む。


 それが、呼びかけの正体だった。



 昼休み。

 廊下で、栞奈は足を止める。

 窓に映る自分の影が、少しだけ違って見える。


(……私、二つある?)


 一瞬の錯覚。

 でも。


 ――見てるよ。


 背中に、ぴたりと寄り添う気配。

 思わず、振り返る。

 誰もいない。

 でも。


(……近い)


 怖い。

 それでも。


(……離れたくない)


 その感情に、自分で驚く。



 放課後。

 校門の外。

 斎藤万央の言葉が脳裏をよぎる。


『深入りしない』


 栞奈は、スマホを取り出す。

 連絡先を開いて、止まる。

 その時。


 ――呼べば来る。


 胸の奥に、静かに落ちる。


 ――君が選ぶ。


 栞奈の喉が、鳴った。

(……選ぶ。私が?)


 影が、微かに、満足そうに揺れる。

 この呼びかけは、命令じゃない。

 強制じゃない。


 だから、拒みにくい。

 だから、気付くのが遅れる。


 栞奈は、結局連絡しなかった。

 代わりに、小さく呟いた。


「……今日は、大丈夫」


 影は、否定しない。


 ――分かった。

 ――待つ。


 その言葉が、一番怖かった。



 三日後。

 最初に、反応したのは空気だった。


 斎藤万央が、校舎に足を踏み入れた瞬間。


 ――あ。


 それは、言葉にすらならない小さな揺れ。

 でも、確かに“違った”。

 善野は、それに気付いた。


(……今)


 歩幅を変えないまま、周囲を観察する。

 何かが、栞奈ではなく、万央を見た。

 万央は、気付かない。

 いつも通りの顔で、職員室前を通り過ぎる。


「古林さん」


 声を掛けると、栞奈は少し驚いた顔で振り返った。


「斎藤さん」


 安堵が、一瞬で表情に出る。

 それを、善野は見逃さない。


(……依存)


 言葉にせず、胸の中で整理する。

 万央が、視線を合わせる。


「具合はどうですか」


 栞奈は、一瞬迷ってから答えた。


「……大丈夫、です」


 その時。

 影が、動いた。

 栞奈の背後ではない。

 万央の足元。

 淡く、溶けるように伸びる。


 ――この人。

 ――分かる。

 ――受け取ってくれる。


 善野の背筋が僅かに強張る。


(……まずい)


 怪異は、万央の“優しさ”を識別した。

 それも、正確に。


 万央は、まだ気付かない。

 視線も。思いも。

 常に万央の身にまとわりついている。


 だから、慣れてしまっている。


 栞奈の視線が、無意識に万央へ向く。

「……斎藤さん」

 呼びかける声が、少しだけ甘い。


 それに、万央は気付かない。

 ただ、頷くだけ。


 善野が、一歩前に出る。

「状況、少し変わりましたね」


 万央が、眉をひそめる。

「……そうですか?」


 善野は、視線を校舎の影へ向けたまま、答える。

「ええ。“寄り添う先”が移りました」


 万央は、一瞬息を詰める。

「……私に?」


 善野は、頷く。

 その瞬間。


 影が、はっきりと万央の方へ伸びた。


 栞奈には触れない。

 万央の影と、重なる。


 ――ここ。

 ――ここなら大丈夫。


 栞奈は、それを見ていない。

 ただ、感じる。


(……奪われた?)


 そんな幼い感情が、胸をかすめる。

 万央は、違和感に気付いた。

 空気が、近い。


(……これは)


 一年前と違う。


「……善野くん」


 小さく呼ぶ。

 善野は、即座に答える。


「はい。これ以上、近付かせないでください」


 万央は、一瞬迷った。


(……でも、この子は不安定で)


 影が、その迷いに反応する。


 ――引き受ける?

 ――それでいい。


 善野は、万央のその表情を見て、確信した。


(……ここから先は、“優しさ”が(あだ)になる)


「斎藤さん」

 声を強める。

「一人で対応しないで」


 万央は、返事をしなかった。

 視線が、影に向く。


 影は、万央だけを見ている。


 栞奈は、二人のやり取りに置いていかれ、小さく立ち尽くした。


(……私、また、いらなくなる?)


 その思考に、影は答えない。

 もう、選び直しているから。



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