救われた側
古林栞奈が、斎藤万央を「師匠」と呼ぶようになる前の話だ。
それは、まだ彼女がその言葉を、胸の中にしまい込んでいる頃。
放課後の校舎は、音が少ない。
誰かの笑い声も、部活の掛け声も、今日はやけに遠い。
古林栞奈は、階段の踊り場で立ち止まった。
――まただ。
胸の奥が、ひやりとする。
振り返る。
誰もいない。
分かっている。
気のせいだ、と言われればそうかもしれない。
でも。
(……前と、似てる)
一年前。
誰にも言えなかった違和感を、たった一人、真面目に聞いてくれた人がいた。
「気のせいだって言われたなら、それも含めて、もう一度整理しましょう」
淡々とした声。
優しい、というより、丁寧だった。
斎藤万央。
名前を知ったのは、後になってからだ。
あの時、「大丈夫だよ」とは言われなかった。
代わりに、
「一人で抱える必要はないです」
そう言われた。
それが、どれほど救いだったか。
栞奈は、階段を下りきり、昇降口へ向かう。
靴箱の前で、また、足が止まった。
誰かに見られている。
でも、視線ではない。
もっと、内側。
(……呼ばれてる?)
ぞわり、と背中が粟立つ。
「……」
栞奈は、スマホを取り出した。
連絡先の一番上。
〈斎藤 万央〉
迷った。
迷って、指を止める。
(……また迷惑、かな)
助けられた側は、そう簡単には、再度の助けを求められない。
(あの人は忙しい)
(私より大変な人がいる)
(もう終わったことだ)
全部、言い訳だと分かっていても。
結局、栞奈は画面を閉じた。
昇降口を出ると、夕方の風が冷たい。
その時。
「……古林さん?」
聞き覚えのある声に、栞奈は肩を跳ねさせた。
振り返ると、校門の近くに二人の大人が立っている。
一人は、よく知っている人。
「斎藤、さん……?」
万央は、少し驚いた顔で、すぐに柔らかく笑った。
「久し振りですね」
隣にいる男性が、軽く会釈する。
「市役所の善野です」
穏やかな声。
でも、視線は鋭い。
(……この人)
栞奈は、無意識に姿勢を正した。
万央が、栞奈の様子を一瞬で見抜いた。
「何かありましたか?」
その問いかけに、栞奈は喉が詰まった。
言葉が、出ない。
(斎藤さんは、わかってくれる)
でも。
「……少しだけ」
声が、震えた。
「少しだけ、変なんです」
万央は、頷いた。
即答だった。
「お話、聞かせてください」
“少しだけ”を、そのまま受け取ってくれる。
善野は、一歩引いた位置で、二人を見ている。
栞奈は、気付かない。
この時すでに、善野が違和感を覚えていたことを。
栞奈の後ろ。
校舎の影が、ほんのわずかに、歪んだことを。
それはまだ、敵意でも、害意でもなかった。
ただ。
――見つけた。
そんな気配だけが、静かにそこにあった。
栞奈は、小さく息を吸って、言った。
「……斎藤さん。私、また」
万央は、遮らない。
善野は、口を出さない。
栞奈は、ようやく言葉にする。
「助けてほしい、みたいなんです」
その瞬間。
影が、はっきりと揺れた。
誰にも見えない形で。
だが。
確かに。




