選ばせたあとで
怪異は、もう会議室に常駐していなかった。
呼べば来る。
だが、自分からは現れない。
それが、万央の決断の結果だった。
――役割を与えない
――期待しない
――感謝しない
それでも、追い払わない。
「……来ていますか」
万央が問いかけると、空気が、わずかに歪んだ。
「はい」
声は、前よりも遠い。
「今日は、確認です」
万央は、椅子に座った。
同じ目線で話すためではない。
逃げないためだ。
「あなたは、ここにいたいですか」
怪異は、すぐには答えなかった。
「……以前は、“必要とされるなら”と答えていました」
万央は黙って聞く。
「今は、必要とされないと分かっています」
「はい」
「それでも、ここにいる意味を、考えました」
輪郭が、揺れる。
以前のような安定はない。
「……分かりません」
それは、前と同じ答えだった。
だが、重さが違う。
「誰にも求められないなら、私は、何なんでしょう」
万央は、胸の奥が冷えるのを感じた。
「……答えは、出ません」
「はい」
怪異は、静かに受け止めた。
「それでも、ここに“い続ける”ことは出来ます」
「はい」
「ただし」
万央は、言葉を選ばなかった。
「何も、得られません」
怪異は、うなずいた。
「分かっています」
その瞬間、万央は気付いた。
――この存在は、もう、選んでいる。
「……どうしますか」
怪異は、少しだけ間を置いて言った。
「……終わりにします」
万央は、目を伏せた。
「理由を、聞いてもいいですか」
「……期待されないまま、存在し続けるのは」
声が、弱くなる。
「私が、私であることを失う気がします」
それは、生き物の言葉だった。
「……分かりました」
万央は、それ以上言わなかった。
引き止めない。
慰めない。
評価しない。
怪異の輪郭は、ゆっくりと薄くなっていく。
消える瞬間、それは、最後に言った。
「……あのとき、“ここにいてもいい”と言ってくれて、ありがとうございました」
万央は、答えなかった。
答えてはいけなかった。
怪異が消えたあと、会議室には、何も残らなかった。
書類も、痕跡も。
ただ、万央の中にだけ、重いものが沈んだ。
廊下に出ると、久世がいた。
「終わったな」
「……はい」
「後悔は」
万央は、少し考えた。
「あります」
久世は、それ以上聞かなかった。
「それでいい」
そう言って、去っていった。
夜。
庁舎の外は、静かだった。
万央は、階段の踊り場で立ち止まった。
足が、前に出ない。
「斎藤さん」
善野の声。
「……はい」
「……一人で帰るつもりでしたか」
「そのつもりでした」
嘘ではない。
だが、本当でもない。
沈黙が落ちる。
「……さっきの判断」
善野は言いかけて、止めた。
評価しない。
正しさを言わない。
代わりに、小さく言った。
「……つらいですね」
その一言で、万央の中の何かが、崩れた。
声は出ない。
涙も出ない。
ただ、立っていられなくなった。
善野は、ためらってから、一歩近づいた。
抱き締める、一歩手前。
「……逃げても、いいです」
その言葉に、万央は、初めて善野を見た。
そして、拒まなかった。
善野は、そっと腕を回した。
強くない。
離れられる距離。
万央は、そこに、身を預けた。
救われないまま。
終わらないまま。
ただ、一人ではなくなっただけだった。
万央の目から、涙が零れた。
ぼろぼろと零れて、止まらなかった。




