善野亘は、知ってしまった
翌朝。
怪異対策課は、いつも通りだった。
窓口も、書類も、相談も。
何一つ、変わらない。
「おはようございます、斎藤さん」
「おはようございます」
それだけ。
声も、距離も、昨日と同じ。
――なのに。
善野亘は、自分の調子がおかしいことにすぐ気付いた。
斎藤万央がペンを持つ手。
資料に目を落とす横顔。
電話口で一瞬だけ見せる疲れた表情。
全部が、やけに視界に入ってくる。
「……集中しろ」
小さく、自分に言い聞かせる。
仕事だ。
尊敬している上司だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
――はずだった。
昼休み。
善野は、一人で食堂に座った。
箸が、止まる。
昨夜のことを思い出す。
夜風。
自販機の明かり。
「仕事じゃなくてもいい」
あの一言。
「……あ」
そこで、ようやく気付いた。
自分が、“選んでいる”ことに。
助けたい理由を。
支えたい理由を。
他の誰かでは、だめな理由を。
(……好きだ)
声には出さない。
出した瞬間、壊れる気がした。
それは、欲ではない。
求めるものでもない。
ただ。
この人が立ち続ける場所の隣にいたい。
それだけだ。
午後。
万央が、いつも通り声をかける。
「善野くん、この件ですが」
「はい」
呼びかけにも即答できる。
仕事は、出来る。
平気だ。
でも。
もう、知らなかった頃には戻れない。
善野亘は、自覚した。
そして、それを誰にも渡さないと決めた。
少なくとも、今は。
善野は、自分の動きが変わっていることをはっきり自覚していた。
だからこそ、慎重になった。
朝。
「おはようございます、斎藤さん」
「おはようございます」
声量。間。敬語。
すべて、昨日までと同じ。
――少なくとも、そうあるべきだ。
だが、違いは小さなところに出る。
書類の不備。
以前なら「あとででいいか」と思ったものに、先に気付く。
「こちら、添付が抜けています」
「……ありがとうございます」
万央は、少し驚いた顔をした。
相談が長引く。
相談者が、なかなか話を切らない。
内容は深刻ではない。
むしろただの愚痴になってきている。
万央の声が、少しだけ硬くなる。
その瞬間。
「斎藤さん、次の予定があります」
善野は、自然に割って入った。
言ってから、胸の奥がざわつく。
――今のは、仕事の範囲だ。
そう、自分に言い聞かせる。
昼。
善野は、席を外した。
いつもより一人になる時間を取る。
距離を、戻すためだ。
近付きすぎない。
意識しすぎない。
だが。
万央が視界に入らない時間が、妙に長く感じる。
「……駄目だな」
独り言が、零れる。
午後。
小さな案件。
判断に迷う内容。
いつもなら、すぐ相談する。
だが今日は。
善野は、一度自分で考えた。
祓うか。
見送るか。
どこまで関与するか。
自分の判断として、選ぶ。
「……斎藤さん」
結局、声をかける。
「この件ですが」
万央は、資料を受け取った。
目を通し、静かに言う。
「……丁寧ですね」
その一言に、善野の心臓が跳ねた。
「距離を、取ろうとしているように見えます」
万央は、責めるでもなく、ただ事実として言う。
善野は、一瞬、言葉を失った。
「……はい」
正直に答えた。
「少し、測り直しています」
万央は、少しだけ考えてから言う。
「それは、悪いことではありません。仕事に必要な距離は、人によって違います」
「……でも」
善野は、一歩だけ踏み込む。
「離れ過ぎていたら、教えてください」
声は、揺れていない。
万央は、微かに目を見開いた。
そして。
「ええ。そうします」
それだけだった。
その日。
善野は、“正しい距離”を見つけられなかった。
だが。
逃げもしなかった。
近付きすぎることも、遠ざかりすぎることも選ばなかった。
測り直すという選択。
それ自体が、今の善野にできる精一杯だった。
そして。
その微妙な変化に、気付く者がいる。




