夜は、線を引かない
終電には、まだ間に合う。
だが、二人とも動かなかった。
市役所の裏手、人通りの少ない道。
自販機の明かりだけが、やけに白い。
「……斎藤さん」
善野が、いつもより低い声で言う。
「今日は、帰らなくても大丈夫ですか」
「ええ」
万央は、少しだけ首を傾けた。
「家に、何も待っていないので」
言ってから、ほんの一瞬だけ後悔した。
弱音に近い。
善野は、それを聞かなかったふりをした。
「……じゃあ。少し、歩きませんか」
「はい」
夜の街は、仕事の顔をしていない。
信号の音も、遠い。
「……さっきの話」
善野が、ぽつりと言う。
「斎藤さんが、“間違えた”って言ったやつ」
「はい」
「……正直」
足を止める。
「安心しました」
万央は、驚いて彼を見る。
「失礼かもしれませんが」
善野は、慌てて言葉を足す。
「でも、斎藤さんが完璧じゃないって……少し」
息を吸う。
「近くなった気がして」
万央は、しばらく何も言えなかった。
夜風が、髪を揺らす。
「……善野くん。私は頼られるのが、仕事だと思っていました。頼るのは、よくないことだと」
声が、少しだけ柔らぐ。
「でも、今日は――あなたと話せてよかった」
善野の喉が、小さく鳴る。
「……それは、仕事じゃなくても、いいですか」
ほとんど、聞き取れない声。
「仕事じゃなくても、話して、いいですか?」
万央は、一歩だけ近付いた。
触れない距離。
でも、逃げない距離。
「……ええ」
少しだけ、唇の端が持ち上がる。
微笑。
「仕事じゃなくても。善野くんが話したいなら」
沈黙。
だが、気まずくはない。
「……あの」
善野が、少し照れたように言う。
「これ」
自販機で買った缶を、差し出す。
「もう、冷めてますけど」
万央は、小さく笑った。
「ありがとうございます」
二人で、ベンチに座る。
肩は、触れない。
だが、距離はもう測れない。
夜は、何も約束しない。
名前も、つけない。
でも。
距離が縮まった。
それだけは、確かだった。




