境が、あったという記録
翌週。
再開発区域での事故報告は、なかった。
人が迷うことも、理由なく転ぶこともない。
数値上は、改善。
統計上は、成功。
だが――。
「……変ですね」
善野亘が、資料をめくりながら言った。
「何がですか」
斎藤万央は、端末から目を上げる。
「問い合わせが、減りすぎている」
地図を指す。
「“あの辺り”に関する相談だけ、極端に無いんです」
万央は、少し考える。
「危険がなくなったからでは?」
「それもあります」
善野は、頷きつつ続ける。
「でも……“気にしなくなった”感じが強い」
境があった場所。
そこを、人はもう見ない。
立ち止まらない。
意識に引っかからない。
「……忘れられている」
万央が、ぽつりと言う。
「はい」
善野の声も低い。
「まるで、最初から何も無かったみたいに」
怪異対策課の内部サーバー。
非公開フォルダの奥。
そこに、一件の記録が残されている。
【案件名】
境界神対応記録(紋霞市外縁部)
【処理内容】
神事による役目終了の通達
祓い・破壊は行わず
【備考】
本件は、法的根拠を持たない
ただし、社会的影響を鑑み、
再発防止資料として保存する
文末に、短い一文。
「境は、人が引き、人が終わらせた」
「……これで、いいんでしょうか」
善野が、画面を見つめたまま尋ねる。
万央は、即答しなかった。
「正しいかどうかは、分かりません」
正直な答えだ。
「でも」
一呼吸置く。
「誰かが、終わったと書かなければならなかった」
その日の夕方。
山川主悦が、怪異対策課を訪れた。
いつも通り、きちんとした身なりで。
「その後の様子はいかがですか」
敬語で、穏やかに。
「事故はありません」
万央が答える。
「それは、何よりです」
山川は、少しだけ笑った。
安心と、それとは別の感情が混じった表情。
「……境が消えると」
万央が、ふと思う。
「人は、楽になりますね」
「はい」
山川は否定しない。
「ですが」
一拍置く。
「守られていた、という記憶も一緒に消えます」
「それが」
万央は、言葉を探す。
「少しだけ、怖い」
山川は、頷いた。
「人は、守られていたことを忘れる生き物です。だからこそ、同じ境を、何度も作る」
外。
電線に、一羽の烏が止まる。
『終わったな』
低い声。
「……ああ」
山川は、雑に返す。
『後悔は?』
「ない」
即答だった。
「ただ」
視線を空に向ける。
「礼は、言えた」
烏は、少しだけ黙った。
『……それなら、上等だ』
その後。
あの場所は、普通の生活道路になった。
誰も、立ち止まらない。
誰も、振り返らない。
境が、あったことすら、話題に上らない。
だが。
怪異対策課の奥で。
内部資料の一行だけが、静かに残り続ける。
「生きていることになっている人」も、「守り続けている神」も、制度と無関心が作る怪異である。
万央は、画面を閉じた。
境は、確かに終わった。
だが。
終わらせたという責任は、人の側に、残ったままだ。




