終わりを告げる言葉
書類は、何度も書き直された。
斎藤万央の机の上には、印刷された文案と、赤字の修正が重なっている。
どれも、決定打に欠けていた。
「……法的根拠がない」
善野亘が、低く言った。
否定ではない。確認だ。
「はい」
万央は、ペンを置く。
「行政手続きとしては、成立しません」
これは、許可でも承認でもない。
制度の外側で行われる行為だ。
「でも」
善野は、言葉を選びながら続ける。
「やらない場合、いずれ事故が起きる可能性は高い」
「ええ。それを防ぐ責任は」
万央は、視線を上げる。
「……私たちに、あります」
会議室には、山川主悦もいた。
背筋を正し、人間の会議に臨む姿勢を崩さない。
「この件は」
万央が言う。
「祓いではありません。役目の終了を、正式に伝える行為です」
山川は、静かに頷いた。
「人の側が、責任を引き取るということですね」
「……前例は?」
別部署の職員が、遠慮がちに尋ねた。
「ありません」
万央は即答した。
「だからこそ」
一拍置く。
「記録は残します。表には出しませんが、内部資料として」
善野が、息を吸う。
「“境界神対応記録”として」
それは、制度にとっても、踏み込んだ一線だった。
会議が終わった後。
準備は、淡々と進んだ。
白布。
塩。
酒。
土地の土。
名目は、「工事安全祈願・再実施」。
だが、全員が分かっている。
これは、送別だ。
夕暮れ。
境界だった場所に、簡素な祭壇が組まれる。
人影は少ない。
騒ぐことではない。
これは、誰にも知られずに終わる神事だ。
万央は、手元の紙を見つめる。
何度も推敲した文言。
それでも、足りない気がする。
「……斎藤さん」
善野が、静かに声をかける。
「完璧じゃなくていいと思います」
万央は、苦く笑った。
「完璧じゃないから、怖いんです」
「それでも」
善野は、一歩近づく。
「逃げない人が読む言葉です」
万央は、頷いた。
風が止む。
空気が、張り詰める。
境界が、そこに“ある”と分かる。
山川が、一歩下がった。
立ち会うだけ。
干渉しない。
万央は、深く息を吸い、読み上げる。
「――長きにわたり」
声は、震えなかった。
「この地を守ってくださったことに、感謝致します」
境界が、わずかに揺れる。
「境は、人の手で引かれ、人の都合で消えました。それは、あなたの責ではありません」
善野は、拳を握る。
「役目は、ここで終わりです。どうか、休んでください」
一瞬。
何かが、ほどけた。
圧が、消える。
立ち続けていた“意志”が、ゆっくりと、座るような感覚。
そこには、怒りも、恨みもない。
ただ、終わりがある。
山川が、静かに頭を下げた。
「……長い間、お疲れ様でした」
敬語だった。
鬼としてではなく、一人の立会人として。
電線の上。
烏が、じっと見ていた。
『……律儀な神だったな』
それだけ言って、羽を広げる。
飛び去る音が、夕空に溶けた。
祭壇を片付けた後。
その場所は、ただの空き地になった。
何もない。
だが。
万央は、しばらく動けなかった。
「……終わりましたね」
善野が、そっと言う。
「はい」
万央は答える。
「でも」
一拍置く。
「これは、祓った結果じゃありません。引き受けた結果です」
善野は、静かに頷いた。
境は消えた。
だが。
決めた責任は、人の側に残ったままだ。




