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善意は、線を越える

 異変は、報告書に残らないところで起きた。


「助かった、って言ってました」


 現場確認のあと、記録担当がそう伝える。

 口調はどこか安堵を含んでいた。


「具体的には?」

 善野が尋ねる。


「夜間の動線誘導です。本来なら、こちらが想定していたルートとは違う経路を示したようで……結果的に、転倒事故を防いだ形になっています」


 人的被害はない。

 むしろ、未然に防がれた。

 数字だけ見れば、評価は上がる。


 斎藤万央(さいとうまひろ)は、胸の奥がひやりとするのを感じた。


「……規定外、ですよね」


 善野亘(よしのとおる)は頷く。


「はい。干渉レベルが一段階上がっています」


 指定区域内での見守り。

 それが縁守(えんもり)に与えられた役割だ。


 判断を補助することは許されているが、行動を“選ばせる”ところまで踏み込むのは禁止されている。

 それでも、現場の人間の反応は違った。


「結果オーライじゃないですか」

 別部署の職員が言う。

「怪我人が出なかった。それが一番でしょう」


 その言葉に、万央は何も言えなかった。

 間違ってはいない。

 正しい。


 だからこそ、危うい。


 善野が静かに返す。


「今回は、です。次も同じとは限りません」


 議論は、それ以上深まらなかった。

 “助かった”という事実が、線を曖昧にする。


 指定区域に戻ると、縁守は落ち着いていた。

 規定違反をした自覚はあるらしいが、悪びれた様子はない。


 ――困っていた。だから、手を伸ばした。


 万央は思わず聞いてしまう。


「……それが、善意だと思ったんですね」

 ――違うのか?


 問い返され、言葉に詰まる。

 助けた。それは事実だ。

 否定できない。

 善野が代わりに言う。


「“正しい”かどうかではありません。線引きの話です」


 彼は首を傾げる。


 ――線の内側で、役割を果たしたつもりだ。


 善野は即答しなかった。

 万央が、慎重に言葉を選ぶ。


「……その人は、自分で選びましたか」


 しばらく沈黙があった。


 ――私が示した。危ないと思ったから。


 古林栞奈(こばやしかんな)が、そのやり取りを少し離れた場所で聞いていた。

 胸の奥が、ざわつく。


(……それ)

(前の私と、同じだ)


 誰かに決めてもらう安心。

 怖さから逃げられる代わりに、選ぶ機会を失う。


「今回は注意に留めます」

 善野が結論を出す。

「ただし、次は評価対象になります」


 縁守は頷いた。


 ――分かった。


 その反応が、逆に万央を不安にさせた。

 “分かった”は、“納得した”とは限らない。


 現場を離れる途中、万央は足を止めた。

「……」

 何か言いかけて、やめる。


 庇いたい気持ちが、喉元まで来ていた。

 善野はそれを察したように、静かに言う。


「斎藤さん。今、背負う必要はありません」


 万央は、小さく息を吐いた。

「……はい」



 その夜、栞奈は眠れなかった。

 助けられた人の話が、頭から離れない。


(助かった。でも)

(それで、いいの?)


 善意は、悪意よりも線を越えやすい。

 その兆しが、確かに現れ始めていた。



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