順調は、兆しを隠す
試行運用初日の記録は、驚くほど簡潔だった。
規定違反なし。
人的被害なし。
想定外行動なし。
報告書としては、理想的と言っていい。
「……順調ですね」
記録担当がそう言って、端末を閉じる。
言葉の通りだった。
少なくとも、数字と文言の上では。
善野亘は曖昧に頷きながら、視線を指定区域の奥へ向けていた。
そこにいる彼――縁守は、決められた範囲から一歩も出ず、与えられた役割を淡々と果たしている。
過剰でもなく、不足でもない。
まるで、模範解答をなぞっているかのようだった。
「……何か、問題ありますか」
斎藤万央が小さく尋ねる。
善野はすぐには答えなかった。
「問題は、ありません」
一拍置いて、続ける。
「ただ、気になる点はあります」
万央は、同じ方向を見る。
落ち着いているように見える。
騒がない。
求めてこない。
以前のような“呼びかけ”もない。
安全だ。
少なくとも、表面上は。
「役割を、きちんと果たしている顔です」
善野の言葉に、万央は少しだけ眉を寄せた。
「……それは、良いことでは?」
「ええ。だからこそ、です」
善野はそれ以上説明しなかった。
言語化するには、まだ早い違和感だった。
指定区域の奥で、縁守がふと万央を見る。
その視線には、以前のような切迫した色はない。
ただ、静かな確認があった。
――今は、問題ない。
万央の胸が、わずかにざわつく。
(……“今は”?)
問い返すべきか迷ったが、善野が先に口を開いた。
「“今は”というのは、評価期間だからですか」
縁守は少し考えてから答えた。
――そうだ。私は、試されている。
理屈としては正しい。
そのはずなのに、善野の違和感は消えなかった。
試されているのは、怪異だけではない。
制度も、人も、同時に量られている。
そのやり取りを、少し離れた場所で古林栞奈が見ていた。
許可を得て、見学という形で立ち会っている。
危険はないと判断されているからこそだ。
(……静か)
前とは違う静けさ。
でも、安心とは違う。
以前は、引き寄せられる怖さがあった。
今は、何も起きないことが、逆に落ち着かない。
「栞奈さん」
万央が声を掛ける。
栞奈ははっとして、視線を戻した。
「大丈夫?」
「……はい」
少し間を置いて、栞奈は言った。
「でも、“大丈夫”って、何も起きないことじゃない気がして」
万央は、その台詞に返す適当な言葉を、持っていなかった。
その感覚を、自分も抱えているからだ。
その日の運用は、予定通り終了した。
問題は起きなかった。
誰も傷つかなかった。
それでも、報告書を書き終えた万央は、手を止める。
(……私は)
(ちゃんと、委ねられている?)
背負ってはいない。
けれど、完全に距離を取れているわけでもない。
その曖昧さが、まだ怖い。
一方で、役割を得た縁守は、初めて“内側”に立っているはずだった。
名前があり、線があり、居場所がある。
それでも、どこか満たされていない気配がある。
それに気付いているのは、善野だけだった。
(順調、か)
(順調な時ほど、兆しは見えにくい)
試用期間は始まったばかりだ。
線の内側で、何が育ち、何が歪むのか――
それを確かめる時間が、静かに動き出していた。




