壊れない選択
条件は、静かに提示された。
――名前を、残したい。
影はそう言った。
曖昧な輪郭のまま、しかしはっきりとした意思を帯びている。
――呼ばれる名前がほしい。
――記録に残る形で。
――忘れられないための、証がほしい。
善野は頷いた。
「可能です。正式名称として登録します。仮称ではなく、管理対象として」
万央は、そのやり取りを聞きながら、胸の奥がじわじわと熱くなるのを感じていた。
分かってしまう。
消えたくない気持ちも、名前に縋りたくなる感覚も。
それでも。
(……一人では、引き受けない)
そう決めたはずなのに、感情は追いつかない。
視線が揺れた瞬間、善野が隣に立った。
肩が触れそうな距離。
支えるというより、そこにいるだけだ。
「斎藤さん」
「大丈夫」
小さな声。
声が震えた。
だが、崩れなかった。
善野が、何も言わず横にいる。
その事実が、万央を立たせていた。
善野がまとめる。
「試行運用とします。期間を区切り、評価を入れる。問題が出た場合は即時見直し」
一拍、置いてから、言葉を足した。
「――人的被害が出た場合、祓うことを選択肢に入れます」
教室の空気が、わずかに張る。
影は、その言葉を否定しなかった。
むしろ、静かに受け止める。
――……分かっている。
声に、諦観はない。
覚悟だけがある。
――だが。
影は、万央を見た。
――その時は、君に立ち会ってほしい。
万央の胸が、きゅっと縮む。
善野がすぐに口を挟む。
「単独では認めません。必ず複数名です」
影は、頷いた。
――それでいい。
万央は、一瞬だけ目を伏せ、それから顔を上げた。
「……立ち会います」
声は、震えていた。
感情は抑えきれていない。
でも、崩れてはいない。
「逃げません。ただし……一人ではしません」
影が消えるときは、万央が見送る。
そう決めた。
だが、一人ででは、ない
善野は何も言わず、隣に立つ位置を微調整した。
その距離が、答えだった。
影は、ゆっくりと形を落ち着かせる。
――分かった。
――背負われない。
――だが、忘れられない。
それでいい、と。
空気が、ゆっくり緩む。
その様子を、栞奈は黙って見ていた。
万央の背中は、以前と同じように細い。
でも、違って見える。
一人で立っていない。
無理に一人で背負うことを、しない。
打ち合わせが終わり、人の気配が戻り始めた頃、栞奈は万央に近づいた。
「斎藤さん」
少し迷ってから、言い直す。
「……師匠」
万央は驚いた顔をした。
「え?」
栞奈は照れたように笑う。
「一人で背負わないこと。それが大事って、教えてくれたから」
万央は一瞬、言葉を失ったあと、困ったように息を吐いた。
「……それは」
言い掛けて、万央は言葉を選んだ。
善野が、珍しく口を挟む。
「いいと思います。師匠」
万央は、思わず苦笑した。
でも、その表情は、少しだけ軽かった。
壊れない選択は、強がらないことだった。
委ねる相手を、きちんと選ぶことだった。




