夜空に浮かぶは赤い月(7)
海雲に白影の里を追い出されてから数日後、サイゲートは王城内の広場で人波に揉まれていた。王城を眼前に仰ぐこの広場は、毎年秋に行われる収穫祭にも使用されている。そのためサイゲートも幾度か訪れたことがあり、それは広場に集まっている全ての国民が同様だろう。だが本来、この広場は王族が公の場に姿を現す時に使用するためのものなのだ。
召集の理由も知らされずに集っている人々は少し早い祭りの予行だとでも思っている様子で、広場には和やかさとある種の熱気が漂っている。人々の昂る心情は肌で感じられたが、サイゲートは華やかな空気に溶け込むことが出来ないでいた。落ち着かない気持ちなのは海雲の一言が頭から離れないからである。
『戦が始まる』
険しい表情をするでもなく無表情のまま、海雲は淡白にそう言っていた。口調は至って静かなものだったのだがその一言を発した時の海雲は言い知れぬ空気を纏っていて、その雰囲気が未だにサイゲートを動揺させているのである。それでもサイゲートには、まだ「まさか」という思いがあった。こうして海雲の予告通りに国民全てが集められているにもかかわらず「戦」という響きが遠いほど、赤月帝国は平和慣れしているのである。
広場に渦巻いていた熱気は王が姿を現すという言葉で絶頂に達した。しかし広場の上方――王城の二階部分――に設けられたバルコニーに姿を現した王を仰いで、人々の熱気は一息に凍りつく。あちこちで息を呑む小さな音が聞こえ、その中にはサイゲート自身の吐息も混じっていた。王だけでなく、バルコニーに姿を現した者達は皆、防具に身を包んでいる。その様はまるで、戦が始まるかのようであった。
「皆、よく聞け!」
人々が閉口して静まり返った広場に、研ぎ澄まされた王子の声が響き渡る。その声音は温厚という王子の印象を一瞬にして打ち砕くほどの厳しさを伴っていた。
「世界では未だに領土を奪い合い、権力を欲する争いが続いている。民が血を流さずに済む国は、そう多くはないというのが世界の実情だ。そのような世の中で成り上がった者達がいる。大聖堂という集団だ。彼等は信仰を心に抱いた聖職者達である。乱世でなければ神を崇め、心静かに暮らせたであろう者達まで自らの命を守るために戦わねばならない。また大聖堂は多くの流民を受け入れてきた。多くの人間が共に生きて行くためには領地が必要だ。彼等は隣国を侵略しつづけ、我が国にも手を伸ばそうとしている。赤月帝国は、まもなく戦場となるだろう」
自身が戦争に巻き込まれそうだと知った時、人々は初めて反応を示した。驚愕と衝撃はやがて嘆きや漠然とした恐怖、そして憤りへと変化していく。人々が発した様々な声は多様な感情の渦となって一瞬にして膨れ上がっていった。
「黙れ!!」
王子が発した吼えるような声は一体感のない国民のざわめきよりも強く、腹の底に響いてくるような重厚さがあった。空気をも振るわせるような王子の一喝に、人々は黙して彼を仰ぐ。群集が閉口しても王子は険しい表情のままだったが、やがて彼は張り詰めた空気を和らげるようにふっと笑みを零した。
「父王からお言葉を頂戴する。話は最後まで聞くものだ」
王子が口調を和らげたことで国民の間にも安堵の空気が漂ったが、それは束の間のことだった。後退した王子と入れ替わるように進み出て来た王が、自らの国の民を見渡して口火を切る。
「我が赤月帝国は長きに渡り平和な時代が続いてきた。それは権力を欲することなく、争いを嫌う人々が戦火に怯えることなく暮らしていけるこの地を護ってきたからだ。だが世界は未だ混沌とした争いに支配されている。この国を少しでも出れば焼け果てた荒野、人間が人間を殺め、それでも生きていかなければならない光景を目にするだろう」
覇気を感じさせる王子の調子とは違い、王が静かに語る言葉は一語一句が重かった。口調が淡々としている分、国民には重圧が伸しかかってくるのだ。意気消沈した国民は敬虔な態度で王の言葉に耳を傾けている。
「赤月帝国は権欲争いに参戦する気は毛頭ない。しかし、我等の地を侵そうという者があれば護るために戦う」
王の決意は重く、彼の思いを受け止めきれなかったサイゲートは群集の中で思わず目を逸らした。その拍子に明らかに異質な人物がバルコニーに佇んでいることに気がつき、サイゲートは目に留まった白装束の人物を遠望する。王の後ろに控えている人物まではかなりの距離があったが、サイゲートの目には彼の人物の顔がはっきりと映った。
(海雲……)
白装束姿を見るのも公の場で姿を目にすることも初めてだったが、王族と同列にいるのは間違いなく海雲である。サイゲートが目を見張っていると後退した王に代わって再び王子が前面に出てきた。
「我が国には古くから軍隊が存在している。無論、自衛のための軍隊だ。赤月帝国が長く平和を保てたのも彼等のおかげと言うより他ない。赤月帝国の軍隊である白影の里の棟梁、海雲だ」
王子が、海雲を国民に紹介している。その最後の一言にサイゲートは耳を疑った。
(海雲が……)
棟梁という響きが無粋に胸を抉り、サイゲートは知らないうちに拳を強く握っていた。人伝に明かされた事実がサイゲートに衝撃を与えたことなど知る由もない海雲は淡々と言葉を紡ぐ。
「王子から聞き及んだ通り、我ら白影の里は赤月帝国を守護するために存在している。戦になった時、血を流すのは我らの役目だ。だが戦とは何が起こるか分らぬもの。もしも我らが敗れたのなら、赤月帝国を護るものは何もない」
突き放すような海雲の言葉は群集に再度の衝撃を与えた。不安を囁く声や恐怖に震える者の嘆きがざわざわと渦巻いている。しかし海雲は、王子のように一喝して群集を黙らせることはしなかった。バルコニーにいる者が誰しも沈黙を保っていたので、やがて群集も囁きを収める。広場が異様な静寂に包まれてから、海雲は無感動に言葉を次いだ。
「平和など、何処にもない。だからこそ我ら白影の里はこの平和を護るために戦をする。勝ち取らねば生きてなどいけないのだ」
王の静けさともまた違う海雲の冷たさは国民の肝を冷やすのに十分な効力を有していた。突き放しただけでフォローをすることもなく、海雲はさっさと後退する。この場を取り仕切っている王子が再び前面に出て来て、国民に語りかけるように話しかけた。
「聞いた通りだ。我が国にも軍隊は存在する。だが、それも絶対ではない。この世の中に絶対というものが有り得ない限り、己の身は己で守るしかない。同じように、我等の国も我等が護るしかないのだ」
王子の言葉は最後通告であった。もはや会戦が避けられないことは、この場にいる誰もが切実に感じている。だが民衆からも友人からも切り離されてしまったサイゲートは一人、為す術もなく俯いていた。
王城の二階にあるバルコニーで国民に向けて演説をした後、海雲は先に退出した王族の後に従って城内に戻った。城で働く者も含めて国民全てを広場に集めたため、城内はひっそりと静まり返っている。まだ広場にいるはずの民衆の声も、聞こえてはこなかった。
赤月帝国に生きる者達は一部を除いて、何も知らされずに生活してきた。日常の中で考えることは仕事や家族のことばかりだっただろう。その意識を改革し、どうやって自らを守れと教えるのか。戦争になりそうだと予感した時から白影の里と王族、そして大臣も交えて腐るほど議論を重ねてきた。その結果、長い時間の中で植え付けられた概念は同程度の時間をかけなければ拭い去ることは出来ないという答えを得て、今回の仰々しい演説に至ったのである。
「重いな。肩が凝る」
普段の彼らしくなく『王子』を演じたアゼルは城内に戻るなり防具の紐を緩めた。複雑な影がさしているアゼルの横顔を、海雲はじっと見つめながら反応を返す。
「命の重さに比べれば軽いものです」
正面から戦う訳ではないのだから、命さえ守られればいい。アゼルや王が身につけている防具はそうした考えのもと、長年研究を重ねて作り上げられた物だった。海雲の言葉を受けて振り向いたアゼルは苦い表情で頷く。
「そうだな。命があればいい」
会話に耳を傾けていたらしい王も海雲の意見に同意した。だが海雲が向き直ると王は目を伏せる。
「嫌な役目ばかりを押し付けて、すまない」
王がそのようなことを言い出すのには、国民には見せられない裏の事情があるからだった。王は海雲に与えられた役割に負い目を感じているのである。
今まで平穏に生きてきた国民に戦を教えるのは困難な作業である。時間があまりない中、失った恐怖を呼び起こし自らの身は自身で守るという意識を覚醒させるには誰かが煽るしかない。言わば、憎まれ役が必要なのだ。同時に、国民を絶望させないために安心を与える存在も必要となる。誰がどの役割を果たすべきかなど考えるまでもなく、謝罪の必要もない。だが王は、そのことを承知していながらも海雲が非難の矢面に立たされることに心を痛めているのだろう。そんな苦しさが凝縮された王の一言に、海雲はにこやかな笑みでもって応えた。
「それが我らの使命です。今後、二度とそのような事は口になさらないでいただきたい」
「海雲の言う通りです。個人にはそれぞれ成すべきことがあるのですから」
アゼルにまで言い含められた王は困ったように微苦笑を浮かべた。
「そうだな。今は、それぞれが出来ることをしよう」
「愛すべき祖国を護るため、父王のお力になれるよう最善を尽くします」
アゼルが『王子』として王の前に跪いたので海雲も無言でそれに倣う。役割を演じることに疲れを感じていたのはアゼルだけではないようで、王は海雲とアゼルに立ち上がるよう促したのち王城の廊下を歩き出した。




