<三十二>胡蝶蘭の花
<三十二>胡蝶蘭の花
――よしこさん……。
ふと気が付くと華子は一人『胡蝶蘭の家』の食堂に立っていた。
掃除機の音だけが食堂に鳴り響いている。よしこさんの姿は食堂にはない。
「よしこさん。よしこさん。どこへ行ったの? 掃除機をつけっ放しよ」
返事がない。
華子は掃除機の所へ行きスイッチを停めた。施設の中はシーンと静まりかえっていて人の気配すらしない。華子は自分の胸に手の甲を当ててみた。そこにはよしこさんの確かな温もりが感じられた。
「ねえ。よしこさんったら! 私を置いて一体どこに……」
食堂から華子は玄関前の廊下に出た。斜め横に厨房が見える。遠くから見ても中の様子は伺える。
そこは、もう既に何年間も使われていないということだけははっきりとわかった……。
玄関の所に貼ってあった小学生三人の写真の下には、先ほど気が付かなかったが何かが書いてある。
『さようなら。こちょうらんの家。ここで最後の僕たち三人のこと。決して忘れないでね。所長先生。ありがとう』
二人目の『さようなら』
そして三人目の『さようなら』
◆◇◆
華子は片膝を折りその場に崩れた。
華子は今さっき、よしこさんを抱きながら心の中で念じた言葉をもう一度反すうした。
――何も言うまい。
――何も言うまい。
そして新しい言葉を姿見えない『よしこさん』に伝えた。
――ごめんなさい、ですって? わざとじゃないのよ、ですって? ううん、世界で一人の私の『お母さん』に感謝します。こんな私を産んでくれてありがとう。でもお母さんがいなくてちょっぴり寂しかったけどね……。私はしっかり今を生きています。そしてこれからもずっと……。また会えることを信じてね。
玄関の横にある小さなテーブルの側面には、かつて施設に居た当時、華子が花屋で見た名前のわからない草花を気に入って描いた絵が、そのまま貼ってあった。
もちろん今の華子には、それが何の花であるかがわかる。
東南アジアに行った時にホテルに飾ってあった花。華子の感情を反映する様に突然咲いたりしぼんだりする不思議な花。それは……、『胡蝶蘭』の花。




