<三十一>故郷の我が家
<三十一>故郷の我が家
翌日、華子は懐かしい故郷の我が家『胡蝶蘭の家』の玄関先に立っていた。
スライド式の格子の扉を開けて、華子は中を覗いた。正面にはランドセルを背負った三人の小学生の写真が貼ってあった。相変わらずのこと、三人とも顔立ちがどこか日本人離れしている。
とっくに朝食が終わっている筈の時間に、玄関近くの食堂の辺りで掃除機の音がしている。食事までに間に合わなかった掃除の続きをしているに違いない。しかしまさかあの時のよしこさんではないだろう。あれからかれこれ十年以上もの歳月が流れている。
「ごめんください」
子供や学生の声もしない。今の時刻からして、皆登校したに違いない。
「ごめんください。あの。以前こちらでお世話になっていました斉藤華子です」
当時所長の他にも施設には二~三名の職員が勤務していた。施設の外から通ってくる職員の出勤はまだにしても、警備を主とする住み込みの男性職員は居る筈だ。しかし今は外出しているのか、中には居ないようだ。
――裏の畑に所長と一緒に野菜でも採りに行ってるのかな。
そう思いながら華子は玄関から上がって食堂へ行ってみた。
があがあがあがあ。
あの当時と同じ掃除機だ。
「……!」
そこには絶対に居ないと思っていた『よしこさん』が一生懸命掃除機をかけている姿が有った。しかも、歳が経っているのにまるで時間が停止していたかの様に当時の状況そのままだ。いえ、状況だけではない。何より驚いたのはよしこさんの顔立ちも当時と殆ど変わっていない事だ。
――ずるいよ。私は三十歳にもなって、こんなになっちゃったのに、あなたはどうしてそんなに綺麗なワケぇ。
違う。そういう事ではない。もっと真剣な問題なのである。
よしこさんは華子の記憶の中だけの存在ではなく、実在していた。自称科学者の秋葉さんの言う『後に華子自身が記憶を塗り替えた』訳ではないことがはっきりした。今、目の前によしこさんがいるのだ。
そしてさらにもう一つのこと。科学者のいう超常現象、すなわちよしこさんの強い想いによる『残留思念』でもない、と華子は思った。目の前の彼女の姿はあまりにも自然であり、超常現象などと呼べる雰囲気は微塵もない。現実的過ぎるのだ。
――やっぱり考え過ぎだったのかなあ。単に色々な偶然が重なっただけだ。
華子は掃除機の音に負けないよう少し大きめの声で、しかし出来る限り優しく声を掛けた。
「久しぶりですね。よしこさん!」
よしこさんは華子の姿を見て言った。
「まだ掃除済んでないんです。すいません。すいません」
よしこさんは昔と変わらず、相変わらずの『すいません』を繰り返した。
華子は彼女の『すいません』がやけに気になった。
「どうしてあなたはそんなに『すいません』ばかりなの?」
それでもよしこさんは掃除機を動かしながら『すいません』を繰り返した。
華子は少しイラつきながら言った。
「あのね。あなたは『すいません』を言う時、昔からいつも私の方向いてなかった? 『何で私がすいませんって言われなきゃならないの?』って、いつも感じていたのよ」
があがあと掃除機の音が響く。
「すいません」とだけまた彼女は言った
華子はますますいらいらしながらも気持ちを飲み込んだ。そしてさらに強い口調で突っ込んだ。
「あなた! なんで私に謝まってばかりいるの!? 何、あなたが私に謝らないといけないことしたって言うの?」
彼女はびっくりしたように華子の顔を見た。華子はきっぱりと言った。
「いい加減にしなさいよ。謝ったらいいってことじゃないよ」
華子は自分がかつての掃除のおばさんの様に彼女を苛めてしまっているかも知れないと思いつつも言葉をつなげた。
「何を謝ってるか訊いているのよ。早く答えなさい!」
華子は何故自分が今、こんなにもムキになっているのか、全くわからなくなってきた。自分自身の気持ちすら理解出来ないということが彼女をますます支離滅裂な言動へと掻き立ててしまっていた。
彼女は泣きそうな顔をしてぽつんと言った。
「ごめんさい」
――すいませんで突っ込んだら今度はごめんなさい、ですってぇ?!
華子はとうとう、自分のイラついた心の内をこれ以上彼女に向けることは止めることにした。
しかし華子は自分の想いを最後まで引きずっておきたかった。自分よがりでもいいから……。よしこさんが自分の実の母親と何らかの結びつきがあるのではないかということ。それは何の根拠も無くあまりにも荒唐無稽なアイデアである。かつて一人寂しく社会へ飛び立った華子が常に心の拠り所にしていた『よしこさん』が、さらに自分の母親に何らかの結びつきが有る、母親のメッセージを受け取っていると考えた時の満ち足りた想い。それは華子にとって決して忘れられる想いではなかったのだ。間違っていた、勘違いだったということで簡単に切り捨ててしまえる様なものではなかったのだ。
そう考えた時、思わず異常としか言えない様な言葉が華子の口をついて出た。
それはまさに『短刀直入』な言葉だった。
「よしこさん。あなた。私が会いたかった人……じゃないよね。そんな事言うの、頭おかしいかしらね?」
「……!」
よしこさんは一瞬その手を止めた。そして華子の方へ再び顔を向けた。
華子は真剣に彼女の目を見つめ続けた。目をそらさせてなるものか! そんな思いだった。しかし、よしこさんは目を伏せ、俯きながらぽつんと言った。
「すいません。掃除。早くしようと思っているのに、すいません。ご迷惑掛けて本当にすいません」
華子の暴走をもはや止めることは出来ない。
華子は何か展開を変えなければいけないと思い、さらに言った。
「そう。じゃあ、あなたに触れてみていい? あなた、お化けじゃないわよね。まさか」
よしこさんはまた掃除の手を停めて華子の方に向いた。
「すいません。ごめんなさい。掃除が……うまく出来なくて」
華子は一気に眉を吊り上げた。そして早口でまくしたてる様に言葉を浴びせた。
「ばか! あんたね! 掃除の事なんてどうでもいいってのよ!! あったまにくる!」
華子は早足でよしこさんの前に歩み寄り、半ば強引に彼女の片腕を取って引き寄せ、胸に抱きしめた。
そして……。
その後のよしこさんの反応は意外なものだった。華子の背中に痛いくらいの爪を立てた。華子が苦痛のあまり避けようと退くと、今度は彼女の方から体を密着してきた。
彼女は初めて大きな声を出した
「ごめんなさい。わざとじゃないの。わざとじゃあ……」
華子は何のことかわからないまま、彼女を強く抱きしめた。
しかし華子は何かわからないが、重要な『展開』が訪れている様な気がして、決してこの状況を斗切らせてはいけないと思い、テキトーな言葉を選んだ。それは華子の勝手な想いだったのかもしれない。
「わかってる。わかってる。大丈夫。大丈夫よ。うん。ゼンゼン大丈夫なんだから! よしこさん」
何がわかっているのか華子にもさっぱりわからない。しかし『わざとじゃないの』という彼女の訴えが華子の胸に何かの灯りを点した。
その時、華子は一体何を考えていたのだろう。いや、何も考えてはいない。何かが華子の心の中に意思をねじ込んでいるのかも知れない。
今、抱きしめている、いえ抱きしめられているよしこさんは誰がどう見ても華子の母親である筈がない。ところがそれでも華子は頑なに、時を越えて誰かが、何かがメッセージを送っていると思い続けた。自分の母が自分をもうけた若い時に、誰に頼ることも出来ず、愛する我が子を捨てる事となってしまった『無念な想い』が、たとえ肉体が失われようとも時を越えて絶対に存在し続ける筈だと……。
華子はよしこさんを抱きしめ続けた。抱きしめる手を緩めなかった。緩めてはいけない、と思った。案の定、よしこさんも華子を強く抱きしめ、放すことはなかった。
「よしこさん……」
「……ごめんなさい」
「よしこさん。ごめんなさい、はもういいのよ」
しかし、よしこさんは華子の母の『残留思念』でない、と華子は再度確信した。こうして生身の人間を抱きしめているのだから。この時ばかりはとうとう、自分の勘違いや自分にとって都合のいい勝手な思い込みを捨てなければいけないと思った。
華子はもう一度記憶をトレースしてみた。考えてみれば、故郷の我が家とも言うべき施設を出て独り発ちして以来、華子の心はずっとずっとよしこさんに支えられてきた。辛いと思った時、苦しいと思った時、寂しいと思った時、いつもよしこさんを思い出して頑張ってきた。
――よしこさん。あなたに再び会えてよかった! うん、それでいい。それ以上でもそれ以下でもないんだ。
よしこさんは幸せそうだった。そして彼女は初めて人間的な感情を華子に見せた。華子も永年の胸の支えが取れた様な思いがした。
「ありがとう。私。私……」
「大丈夫。何も言わなくてもいいのよ。あなたを見ていてあげるからね」
彼女は顔を上げて大きな瞳を華子に向けた。
「お母さんみたいに?」
意外な言葉だった。
彼女の顔は子供の様に無邪気な感じの本当に可愛らしいものだった。相変わらず大人にしては小さな体。いいえ。子供にしては大きな体。
やはりよしこさんには自分と同じく両親が居なかったのだ、と華子は思った。
『お母さん?』に対する答えを華子はまだ出してあげていなかったことに気付いた。
「ええ? ああ。その通りよ。お母さん。あなたのお母さんよ。よしこ、ちゃん!」
華子は答えを出した。
――何も言うまい。今のよしこさんは初めての母を得ることが出来て一番幸せなのだから……。
華子は徐々に頭がぼうっとしてきて、終いには目の前が真っ白になった。




