第2話:執事の礼(物理)と、聖なるお風呂(地獄)
カナメは、父の為、母の為、そして東雲家の為に、明日のお披露目会を滞りなく円滑に、そして跡取り娘として立派に勤めを果たそうと、自室の巨大な鏡の前に立っていた。
すべては、明日訪れる招待客へ、東雲家としての最大の敬意を示すため。
カナメが今取り組んでいるのは、「執事の礼」の訓練であった。
執事の礼。それは一連の動きのひとつひとつを丁寧に行うことで、格式高い印象を与えるトップ執事の基本中の基本動作。
お客様に挨拶を述べた後、胸に手を当て、腰から上体を四十五度傾けてぴたりと静止。そして、下げる時よりも上体を起こす時をややゆっくりと、優雅に流れるように行うことで、より美しく見せる至高の所作である。
前世のカナメの礼は、誰よりも洗練された美しさを誇り、かつての主人は他家の主から羨望の眼差しで見られていたものだ。
(さあ、再現するぞ。あの、静寂を切り裂くような、完璧な礼を……!)
カナメは鏡の中の自分を見据え、まずは気持ちを落ち着けようと深呼吸した。
――胸に手を添え、重心を背中側へ。腰から四十五度、流れるように、かつ正確に……。
「っ……!!」
完璧な計算の果てに、かなめは優雅に上体を傾けた。
――その、瞬間。
3歳児特有の巨大な頭部の重力と、二つ結びのおさげ(ツインテール)の付け根にある巨大なぼんぼりの遠心力が、最悪の掛け算(2乗の比率)を生み出した。
つきたてのお餅のように柔らかなカナメの身体は、制御を失い、文字通り「横へと弾き飛ばされた」のである。
(なんということだ……っ! 執事の礼において『優雅にゆっくりと起こす』ことが肝なのに、重心が頭部に偏りすぎているため、ゆっくりした動きでは重力に負けてしまう。かといって、このバランスの悪い体躯(器)に、か弱い足腰だ。勢い(加速)をつけて動けば、今度は頭の重量が慣性を生んで、止まりきれずにゆらゆらしてしまう。
……つまり、『静止』ができない!! これは執事として、あるまじき致命的な欠陥ではないかっ!!)
なんとか気を取り直し、再び鏡の前で、静かに礼を試みる。
「……っ!?」
今度は、ゆっくりと上体を起こそうとした刹那、巨大な頭部が前方の重力を支配し、カナメの身体を床へと引きずり下ろそうとする。
前世の技術、筋肉の使い方、すべてを総動員して制御しようとするが、このお餅の器には、そもそも「静止」という概念が存在しないかのようだった。
(……嘘だろう。この頭の大きさと首の細さ……。重心移動だけで、執事としての『間』が作れぬだと……!?)
ゆっくり動けば、頭が垂れる。速く動けば、頭が揺れる。
カナメは鏡の前で、自分の意志とは無関係にゆらゆらと揺れる「ただの可愛いお餅」と化し、絶望に打ち震えた。
(くじけるな、カナメ! ゆっくり動けないなら、別の方法で『優雅さ』を演出すればいい。速さだ! 所作の迅雷さでごまかすしかない。一瞬で礼を終わらせ、揺れる隙さえ与えぬ!)
超高速礼を習得すべく、気合を入れなおして鏡の前に立つ。
(いざ――っ!)
カナメは「高速礼」を求めて、巨大な頭の重さの流れのままに首を振り、上体を下げた。そのまま、プルプルと震えながら必死に姿勢を維持する。
(……今だ! 一時、静止……っ! そして、すぐに振り上げるっ!!)
執事の魂を込め、全神経を首の筋肉に集中させた、まさにその時――。
「しぃちゃん、いつまでも鏡の前で遊んでるの? そろそろお風呂に入るわよー」
「……っ、あ!!」
母の湯浴みに誘う声に驚き、せっかく入れた首の力が霧散した。
無様に頭からバランスを崩したカナメは、鏡の前からゴロンゴロンと母の足元まで、でんぐり返り、不格好に座り込んで止まった。
(母上……遊びではないのです。これは、次代の東雲家を支えるための、命がけの所作訓練なのです……!)
「……っ!? 母上、わ、わたちは、の、のちほど、ちとりで……(母上、私はのちほど一人で……)」
「何バカな事いってるの? しぃちゃんはひとりで洗うこともできなきゃ、湯船に入ることもできないでしょ」
母の無慈悲(正論)な言い分と共に、カナメはお風呂場へと強制連行されるのであった。
――――。
(み……見てはならぬ。この視界に、主(母)の肌を焼き付けてはならぬ。……もし見てしまえば、私は二度と戻れない。この甘い香りと柔らかな温もりに……『執事』ではなく『ただの赤子』として、魂を明け渡してしまう……!!)
母の腕の中で、きつく目を閉じるカナメ。
(……不敬だぞカナメ。お前の魂を売るな。お前は東雲家の執事カナメだ。……たとえ、このお餅の器が、母君の胸の温もりに骨抜きにされようとも……ッ!!)
お風呂という名の「聖なる地獄」。
母君という「抗い難い女神」を前に、カナメが取った生存戦略は、必死に目を閉じて母の裸を「見ない」ことであった。
周囲を満たすのは、甘い石鹸の香りと、母の温もり。誰もカナメの心の中の「決死の戦い」など知らない。
その中で、カナメはただ一人、(見れば負けだ。だが、見なくとも母君の温もりが……っ!)と、全身全霊で邪念と戦っていた。
しかし、目をつぶれば、前世で磨き抜かれた執事としての五感が無駄に研ぎ澄まされ、なおさら「触覚」が鋭くなってしまう。
湯船の浮力で身体がゆらりと揺れ、ぷよんぷよんの腕や背中が、意図せず母の柔肌に触れてしまうのだ。
「……っ、すぅ……すぅ……(平常心、平常心……私はただの『粘土の塊』ではない。東雲家の執事であり、家令である……)」
必死に自己暗示をかけるカナメ。
そんな、愛娘が必死に目を閉じ、過呼吸気味に大きく息を吸っているのを見た母君が、心配そうに顔を覗き込んできた。
「しぃちゃん? どうしたの、そんなに力んで。お目々、パッチリ開けてリラックスして?」
ふわりと温かな手が、カナメの桃色の頬に触れる。
「……っ!! 母上、わたちは今、せいちんの、ちゅぎょうを……っ!(私は今、精神の修行を!)」
「まあ、可愛いお顔。寝ちゃダメよ、湯あたりしちゃうわ」
母の指がカナメの瞼に触れようとするのを、カナメは必死に拒もうとする。
だが、ぷよんぷよんの肉体のせいで力がうまく伝わらず、それはただの「ふにゃふにゃと抗うだけの可愛い抵抗」にしかならなかった。
「ふふ、お顔を真っ赤にして。のぼせちゃったかしらね」
優しく抱き上げられ、湯船から上がった、その直後――。
カナメの眼前に、遮るもののない母の一糸まとわぬ裸体(芸術)が飛び込んできた。
「はぅ――っ!!」
脳髄の容量を遥かに超えた衝撃。
限界を迎えたカナメの幼児脳に一気に血が上り、超一流執事はそのまま、静かに卒倒したのだった。




