第三十五話:静かなる瓦解と、王子の沈黙
六月三日、水曜日。朝。
昨夜の旧校舎で起きた嵐のような修羅場が嘘のように、聖華学園の校門前には、抜けるような青空が広がっていた。
私は、校門を潜る直前で、無意識に足が止まった。いつもなら、この場所には「聖華守護騎士団」の腕章を巻いた女子生徒たちが、獲物を待ち構える猟犬のような鋭い視線を投げ、私の登校を阻む「見えない壁」を作っていたはずだった。
(……いない。誰も、いない……?)
校門前には、部活動の朝練に向かう生徒や、談笑しながら歩く普通の生徒たちの姿しかない。あの粘りつくような悪意の視線が、忽然と消え去っていた。
私は戸惑いながらも、一歩ずつ、自分の「背景」を取り戻すように校舎へと歩を進めた。
昇降口に辿り着くと、掲示板の前に人だかりができていた。
「……え、嘘でしょ? 騎士団が解体……?」
「西園寺先輩たち、自宅待機だってさ。昨日の夜、生徒会顧問に酷い嫌がらせの証拠動画が届いたらしいよ」
ひそひそと交わされる噂話が、私の耳を通り抜けていく。
昨夜、資料準備室で三浦くんがスマホを操作していた、あの横顔。彼は「やりすぎは終わりを迎える」と、事務的なトーンで断罪していた。その言葉通り、三浦くんが「日常のおせっかい」として積み上げてきたあの動画は、学園の歪な権力構造を一夜にして瓦解させたのだ。
下駄箱を開ける。
そこには、昨日のようなゴミも、赤ペンで書かれた呪詛の言葉もなかった。ただ、使い古した私の上履きが、ひっそりと私の帰還を待っていた。
「……よかった」
私は、誰にも聞こえないほど小さな声で呟き、震える指先で上履きに履き替えた。
一年C組の教室に入ると、さらに奇妙な光景が私を待っていた。
私の席の周囲に作られていた、あの「空白地帯」が消えている。クラスメイトたちは、まだ戸惑ったような表情を見せつつも、私を透明人間として扱うのを止めていた。
そして、三浦翔太くんは。
「おー、消しゴム返せよ、マジで。それ俺の勝負消しゴムなんだからさ」
彼は窓際の席で、他の女子生徒と相変わらずのチャラいノリでふざけ合っていた。私が教室に入ったことに気づくと、彼は椅子をガタンと鳴らして振り返り、ひらひらと片手を挙げた。
「よっ。……佐倉さん、お疲れ。……ジュース、ちゃんと飲みきったか? 飲み残してカバンの中で溢したりすんなよ」
「三浦、くん……。うん。ちゃんと、飲んだよ。……ありがとう」
三浦くんの声は、昨日の修羅場などなかったかのような、あまりにフラットな「日常のトーン」だった。彼は私を「特別な犠牲者」として労わることもしない。ただの、席の近いクラスメイトとして接してくる。
その徹底した「いつも通り」の態度が、今の私には、何よりも救いだった。
その時、廊下から四人の影が現れた。
一ノ瀬蓮、如月奏、橘駆、千ヶ崎響。
いつもなら、私が教室に入れば誰よりも早く駆け寄り、周囲の目を引くような特別な言葉を投げかけていたはずの彼ら。けれど、今日の彼らは違っていた。
四人は教室の入り口で一瞬だけ足を止め、三浦くんを、そして私を、遠くから見つめた。
その瞳に宿っていたのは、昨夜屋上で三浦くんに叩きつけられた「自分たちが何もしていなかった」という事実に対する、消えることのない敗北感と罪悪感。
橘くんが、何かを言いかけようとして唇を噛んだ。如月くんも、フードを深く被り、私に駆け寄りたいという衝動を必死に抑え込んでいるのが、遠目からでも分かった。
彼らは今、三浦くんが引いた「日常の境界線」を、死に物狂いで守ろうとしているのだ。
自分たちが一歩踏み出せば、再び私の背景は壊れ、悪意の標的を生み出してしまう。三浦くんのように「ただのクラスメイト」として接する術を持たない彼らにとって、今の「沈黙」こそが、陽葵の平穏を守るための、彼らなりの唯一の償いだった。
昼休み。
西園寺麗香の席は、空席のままだった。彼女の後ろ盾を失った騎士団の末端メンバーたちは、王子たちが私に近づくのを止めたことで、攻撃の口実を完全に失っていた。
「……静かだ」
私は一人、中庭のベンチでパンを齧りながら、独り言を漏らした。
遠くの渡り廊下。三浦くんがパンを口に詰め込みながら、他の男子と笑い合っている。そしてそのさらに遠くで、王子四人が、私を「一人の客」として眺める練習でもするかのように、苦い顔で並んで歩いていた。
壊された私の背景が、三浦くんの「おせっかい」によって、少しずつ、けれど確実に再生し始めている。
私は、カバンの中に大切に仕舞った『琥珀・日誌』を、上からそっと撫でた。
まだ、彼らとの関係がどうなるかは分からない。けれど、少なくとも今の私は、石ころとして、けれど一人の人間として、この琥珀色の空気の中に、再び居場所を見つけようとしていた。




