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琥珀色の隠れ家――放課後の王子様たちは、背景な私を逃さない  作者: 寝不足魔王


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第三十六話:背景の再生と、琥珀色の再会

 学園での嵐のような数日間が嘘のように、私の周囲は静まり返っていた。いつもなら、校門を抜けた瞬間から、誰かしらの王子の視線や、それを取り囲む騎士団の刺々しい殺気を感じていたはずなのに。

 今日は、背後を振り返っても誰もいない。ただ、アスファルトを叩く自分の足音と、下校を急ぐ生徒たちの遠い笑い声だけが聞こえてくる。

(……これが、三浦くんの言っていた『いつも通り』の景色なんだ)

 私は、カバンの中に大切に仕舞った『琥珀・日誌』の感触を確かめ、足早に店へと向かった。


 カランカラン、と。

 いつもの真鍮のドアベルが、夕暮れの街角に澄んだ音を響かせる。

 店内に足を踏み入れた瞬間、鼻腔をくすぐったのは、深く、けれど温かな焙煎の香りだった。カウンターの奥では、誠司さんが不器用な手つきで、トレイに広げたコーヒー豆を一つずつ指先で選別している。その広い背中。志乃さんが愛し、私が守りたかった、変わらない『喫茶 琥珀』の風景。

 私は、扉を閉めた瞬間に、知らず知らずのうちに止めていた呼吸を、深く、長く吐き出した。

「……戻りました、叔父様」

「ああ、お帰り。……今日は随分と早かったな」

 誠司さんは顔を上げず、ただ淡々と作業を続けている。けれど、その指先が僅かに止まったのを、私は見逃さなかった。

 誠司さんは、私が昨日「寝不足」だと嘘をついたこと、そして私の周りで何かが起きていたことに気づいていたはずだ。けれど、彼は何も聞かずに私を待っていた。私が、自分の足でこのカウンターに戻ってくるのを。


 私は、意を決してカウンターへ歩み寄り、カバンからあの一冊のノートを取り出した。

 三浦くんが守ってくれた、けれど昨日はゴミ箱の中に捨てられていた、私の聖域。

「……叔父様。昨日、嘘をつきました」

 私の言葉に、誠司さんはようやく顔を上げ、私をじっと見つめた。

「学校で……少し、困ったことがあったんです。私のせいで、このお店まで、叔父様のことまで、酷いことを言われて……」

 私は、ポツリポツリと、けれど隠さずにすべてを打ち明けた。騎士団という存在、彼女たちが私に向けた悪意、そして、私の宝物であるこのノートを「ゴミ溜めの記録」と笑って捨てたこと。

 話しているうちに、また視界が熱くなりそうになったけれど、私は必死に堪えた。

「……三浦くんが、助けてくれたんです。彼がいなかったら、私はこのノートを取り戻せなかった。……すみません。お店に、こんな汚い話を、持ち込んでしまって」

 誠司さんは、私がカウンターに置いたノートを、分厚い手でそっと撫でた。そして、私に背を向けてコンロに火をかけた。


「……陽葵。お前がこの店を守ろうとしたのは分かった」

 誠司さんの声は、いつも通り低くて不器用だった。

「だが、ここは志乃がお前を『背景』にして、自分を押し殺すために用意した場所じゃない。お前が笑うために、ここでお前自身として生きるために、志乃は場所を作ったんだ。……身内の不始末を店主が背負うのは当たり前だ。お前一人が、この店を背負おうとするな」

 誠司さんは、丁寧にドリップした珈琲を私の前に置いた。

「三浦の小僧には……今度、俺からも礼を言っておく。あいつは、お前が一番大事にしているものを、お前より分かっていたのかもしれんな」

 珈琲の湯気が、私の鼻先を温める。

 私は、一口その琥珀色の液体を飲み、初めて「ああ、私は帰ってきたんだ」と心から実感した。


 閉店まであと三十分という頃。再びドアベルが鳴った。

 入ってきたのは、一ノ瀬蓮くんだった。

 彼はいつもなら、私の姿を見つけるなり、周囲の目を奪うような優雅な足取りで駆け寄ってきていたはずだ。けれど、今日の彼は違った。

 一ノ瀬くんは、入り口で一度だけ躊躇うように足を止め、それから、ごく普通の『一人の客』として、カウンターの端に座った。

「……いらっしゃいませ。ご注文を、伺います」

 私は、動揺を押し殺して、努めて事務的に、店員としての声をかけた。

 一ノ瀬くんは、私と目を合わせることもなく、けれど丁寧にメニューを閉じ、静かに言った。

「……ブレンドを、一杯。お願いします」

 それは、彼が三浦くんに屋上で突きつけられた「いつもやってる事を、君達は今まで、何一つやってこなかった」という引導への、彼なりの回答だった。

 彼は、特別な王子様としてではなく、ただの一人の客として、私の珈琲を飲みに来た。陽葵の望む「日常の風景」の中に、自分たちを『不純物』としてではなく、一つの『背景の一部』として溶け込ませるための、不器用で、けれど切実な試行。

 私は、誠司さんに教わった通りの手順で、一ノ瀬くんのために珈琲を淹れた。

 彼がそれを一口飲み、「……美味しいです」と短く呟いた時、私たちの間にあった歪な「壁」が、僅かに消えた気がした。


 一ノ瀬くんが静かに店を去った後。

 入れ替わりで、騒々しい音を立てて扉が開いた。

「よっ。……間に合ったわ。俺、コーラ。瓶のやつ、冷えてる?」

 三浦くんだった。彼はカバンを椅子に放り出し、カウンターの端に陣取ると、相変わらずのデリカシーのない動作で椅子に深くもたれかかった。

「三浦くん。……コーラは、自販機の方が安いよ?」

「ん? 気分だよ。……それよりあんたさ、日誌、綺麗になったか?」

 三浦くんは、昨日の修羅場などまるでなかったかのように、コーラの王冠を抜いてラッパ飲みした。

「……うん。誠司さんも、拭いてくれたから」

「そ。……ま、あんたが普通に店に立ってりゃ、俺の『おせっかい』も終わりだわ。……王子様たちも、外で死にそうな顔して並んでたしな」

 三浦くんはクスクスと笑い、コーラを喉に流し込む。

 彼の、徹底して「特別扱いしない」声。

 私のことを「一人のクラスメイト」としてしか扱わない、その距離感。

 それが、壊されてしまった私の日常を、何よりも強く再構築してくれている。

 私はカウンターを拭きながら、三浦くんの飲み干した空瓶を受け取った。

(……私は、もう石ころじゃないのかもしれない。けれど、この琥珀色の背景の中で、私は私として、また歩き出せる)

 宵闇の『琥珀』。

 そこには、三浦くんのコーラの泡と、誠司さんの珈琲の香りが、穏やかに混ざり合っていた。


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