第三十三話【後編】:琥珀の盾と、届かない指先
旧校舎の資料準備室。陽葵が喉を枯らして放った剥き出しの咆哮は、重苦しい静寂へと変わり、部屋の隅々にまで澱んでいた。
入口の扉が開け放たれたその境界線上で、世界は完全に静止していた。
扉に手をかけ、真っ先に押し開けた三浦くん。そしてそのすぐ背後で、陽葵の放った「好意の完全否定」という鋭い刃に射抜かれ、石像のように立ち往生している四人の王子たち。一ノ瀬くんも、如月くんも、橘くんも、千ヶ崎くんも。彼らは入り口の敷居をまたぐことさえできず、ただ絶望と困惑の入り混じった瞳で、室内の惨状を見つめていた。
その沈黙を破ったのは、西園寺麗香のプライドが崩れ落ちる音ではなかった。
私が、なりふり構わず床に膝をつき、西園寺の足元にあるゴミ箱へと這い寄った音だった。
「……っ、……あ、……」
震える指先が、無造作に捨てられた紙屑の山を掻き分ける。その底に、茶色い表紙の角が見えた瞬間、心臓が跳ね上がった。
埃に塗れた一冊のノート。志乃さんとの、そして誠司さんとの、何物にも代えがたい「琥珀」の記録。私はそれをひったくるようにゴミ箱から掴み出すと、泥(埃)を払うのも忘れて、胸元に強く、壊れ物を扱うように抱きしめた。
(……よかった。無事だ。志乃さんとの、大切な約束。私の、たった一つの誇り……)
ページを捲り、折れ曲がった角を必死に伸ばす。文字が滲んでいないか、誰かに中身を汚されていないか。私は自分の制服の袖で、何度も、何度も表紙を拭った。無事を確認した瞬間に、これまで私を支えていたアドレナリンが急速に引き、激しい虚脱感と震えが全身を襲った。
膝の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった、まさにその時。
入り口の境界線に留まっていた三浦くんが、初めて室内に向かって一歩、踏み出した。
彼は、ショックで身動きが取れなくなっている王子たちの横を、他の子の日常的なトラブルを収める時と同じ、迷いのない足取りで通り越した。彼だけが、感情の檻に囚われることなく、真っ直ぐに私の前へと歩み寄ってきた。
「……大丈夫そう? 大事な物なんだろ」
あまりに場違いな、いつもの日常と変わらないフラットな声。
三浦くんはその鋭い観察眼で、私が埃にまみれたノートを必死に守ろうとしている姿を静かに見つめていた。彼はこのノートの名前や詳細な中身までは知らない。けれど、私の今の必死な様子から、それが何にも代えがたい、私の根幹に関わる「大事なもの」であることを、瞬時に、かつ正確に察したようだった。
「三浦、くん……。なんで……」
「ん? おせっかいだから。……それより」
三浦くんは、他の女の子が泣きじゃくって顔を上げられない時に彼がいつも見せる、迷いのない、けれど強制力のない自然な動作で、自分の制服の上着を脱ぎ、私の頭から被せた。
厚手の、三浦くんの体温が残る生地が私の視界を物理的に遮り、ボロボロになった私の表情と、西園寺の冷酷な視線を一瞬で遮断する。
「……言いたい事は言えた?」
上着の暗闇の中に届いたのは、低く、けれど確かな現実味を感じさせる問いかけだった。
「…………っ。……うん。言った。……全部、言ったよ」
私は上着の裾を指先で強く握りしめ、自分だけの狭い闇の中で、小さく、けれど確かな意志を持って頷いた。
三浦くんは、被せた上着の上から私の肩を一度だけ軽く叩くと、そのまま入り口で凍りついている四人の王子たちの方を、ゆっくりと振り返った。
彼らは入り口の境界線に並び立ったまま、自分たちの「立場」や「特別な想い」が、陽葵を助けるどころか、逆に彼女に「好意さえも否定させる」ほどの絶望を与えていたという事実に、一歩も踏み出せないまま打ちのめされている。
三浦くんは、そんな彼らの未熟な執着を、入り口を振り返るだけで射抜いた。
「あぁ~。一旦君達は、帰って。後で説明するから屋上で待ってて。……納得できなかったら、彼女に二度と付きまとわないからさ。絶対に約束する。」
三浦くんの放った、圧倒的な日常の正論。そして、彼らの「重すぎる愛」を逆手に取った、逃げ場のない交換条件。
一ノ瀬くんも、如月くんも。橘くんも、千ヶ崎くんも。
彼らは、三浦くんが見せつけた「誰にでもやる親切」としての余裕と、その裏にある冷徹な覚悟に一言も発することができないまま、指示に従い、その場から消えるしかなかった。
静まり返った準備室。残されたのは、椅子から立ち上がったまま、プライドを粉々に砕かれて屈辱に顔を強張らせる西園寺麗香だけだった。
三浦くんは彼女に一歩近づくと、事務的なトーンで告げた。
「……前にも言ったけど、やりすぎは終わりを迎えるって言っただろ」
「三浦、翔太……っ。貴方のような、下等な一年生が、何を……っ!」
「彼女が言った通り、告白でもなんでもしていればよかったのに。だけどこれからするのは、ファンクラブの解体と二度と彼女に近づかない事。もちろん喫茶店にも。」
西園寺が言葉にならない反論を漏らし、反抗的な目を三浦くんに向ける。
三浦くんはその視線を鋭い観察眼で一瞬で見抜き、眉一つ動かさずに自分のスマートフォンを取り出した。
「……まだ、やり合うなら遠慮はしない」
三浦くんが画面をタップすると、そこには西園寺が騎士団の権力を傘に、犯罪的な嫌がらせや組織的な隠蔽工作を指示していた現場の証拠映像が、詳細にまとめられて再生された。
自らの不正を白日の下に突きつけられた西園寺は、言い返す術をすべて失い、幽霊のように真っ白な顔で絶句し、その場に崩れ落ちた。
「謝罪するときは、二人っきりだと何かと面倒だから俺を通してね。……それじゃ。いこっか」
三浦くんは、追撃することもなく、ただ「面倒事の処理」を終えた顔で私を促した。
彼は、少し落ち着いた私の様子を確認すると、頭にかけていた上着をそっと取った。王子たちの姿はもうどこにもない。夕闇が沈む静かな室内で、三浦くんは汚れのついたノートを抱える私の肩を支え、そのまま資料準備室を出た。
昇降口へと向かう途中の自販機で、三浦くんはガチャンと音を立てて冷たいジュースを買い、私の手に握らせた。
「……冷て。ほら、少しは落ち着いた?」
「……ありがとう、三浦くん。……本当に、ごめんね」
「礼なら全部片付いてから聞くって。……ほら、今日はもう誠司さんのとこ帰った方が良い。……あとは俺がやっておくから」
三浦くんは、いつものように他の子を見送る時と同じトーンで私を促し、校門へと向かう私の背中を一度だけ見送った。
陽葵の姿が見えなくなった後、三浦は一人、夕闇に染まりきった学園を振り返った。
オレンジ色から紫色へと移り変わる不穏な空の下、彼は静かに屋上を見上げる。
嵐の後の静寂の中、彼は決着をつけに、重い足取りで階段を上り始めた。




