第三十三話【中編】:臨界突破の「背景」と、ジョーカーの正論
旧校舎の資料準備室。西日に照らされた埃が、まるで時が止まったかのように白く空中に舞う密室に、西園寺麗香という学園の「頂点」が放つ、粘りつくような選民思想の余緯が澱んでいた。
私は、入口の扉の前で釘付けになったように立ち尽くしていた。胸元で抱きしめたカバンの紐を、指の関節が白く浮き出るほど強く、狂ったように握りしめている。心臓の鼓動が耳の奥で早鐘を打ち、その音が静まり返った室内で誰かに聞かれているのではないかと、不必要な恐怖が背筋を駆け抜ける。
「あら。……ご苦労さま。案内された通りの『お仕事』を完遂しに来たのかしら?」
部屋の奥、使い込まれた木製作業机の向こう側に、三年A組の西園寺麗香が一人、優雅に椅子に腰掛けていた。彼女は手に持っていた扇子をパチンと閉じ、こちらを射抜くような冷徹な微笑を浮かべる。その瞳には、私を人間としてではなく、排除すべき、あるいは観察すべき「不純物」としてのみ捉える、底冷えするような光が宿っていた。
「……西園寺、先輩。……一ノ瀬くんの資料を、回収しに……」
「嘘を吐くときの睫毛の震えまで、品がありませんわね。そのような稚拙な方便で、この場を切り抜けられると思っているのかしら。貴女のような『背景』が、あの方々の名前を軽々しく口にすること自体、不快ですわ」
西園寺はゆっくりと立ち上がった。その動作には一分の隙もなく、完璧な淑女としての、そして支配者としての気品が宿っている。彼女は一歩、また一歩と距離を詰め、私の目の前でぴたりと足を止めた。
放たれた威圧感は暴力よりも鋭く、私の喉を物理的に締め上げる。呼吸が浅くなり、酸素が脳まで届かないような錯覚に陥る。
「……佐倉陽葵。貴女が身の程をわきまえず、我が学園の至宝である王子様たちに毒を振りまいた罪。それを今ここで、精算していただきますわ。……さあ、見せてくださるかしら?」
「何を……ですか?」
「見苦しいですわね。その、王子様方を誘惑するための不純な私物が詰まった、薄汚れたカバン。学園の秩序を守るため、今ここで私が検閲させていただきますわ」
「検閲……? そんなの、おかしいです。これは私のプライバシーで……」
私が後ずさりしようとすると、西園寺の瞳から一瞬で温度が消え、絶対的な断罪者の色へと変わった。
「拒否権などありませんわ。貴女が何も隠していないと言うのなら、出せない理由はないはずでしょう? 疚しいことがないのなら、今すぐそれをこちらへ」
彼女はためらいもなく手を伸ばすと、私が必死に守ろうとしていたカバンの紐を、その細い、けれど拒絶を許さない力を持った指先で強引に掴み取った。
「やめて……っ! 返して!」
抗議の声を上げる間もなく、私の手元からカバンが力ずくで奪い取られる。
西園寺は、奪い取ったカバンを、埃の積もった作業用の机の上に無造作にぶちまけた。
バラバラと乾いた音を立てて転がり出る、私の数少ない持ち物。教科書も筆箱もない、空っぽに近い空間から、一冊の古びたノートが滑り落ちた。
「あら、これは何かしら……『琥珀・日誌』? 滑稽ですわね、このような古臭いゴミ溜めで、王子様たちを囲い込むための、低俗な作戦会議でもしていたのかしら」
西園寺は、そのノートを指先で拾い上げ、汚物を見るような目でパラパラとページをめくった。そこには、志乃さんが残した豆の比率や、誠司さんが淹れる珈琲の温度、そして私がいつか志乃さんに伝えたいと願った、あの日々の記憶が、拙い文字でびっしりと詰まっていた。
「……返してください。それは、私にとって……大切な人との、大事な約束なんです。そこに書いてあるのは、お店の……」
「約束? 貴女のような女の口にする約束など、何の価値もございませんわ。……それとも、あの店主とやらも、雇っている小娘の不埒な振る舞いを知っていて、王子様たちを客寄せに使っているのかしら。……店主も、同罪ですわね」
西園寺はそう吐き捨てると、私の目の前で、そのノートを足元のゴミ箱へと無造作に放り捨てた。
「このような汚らわしいもの、この学園には必要ありません。ゴミは、ゴミ箱にあるのが相応しいでしょう?」
「…………っ!」
心臓の奥で、何かが決定的に壊れる音がした。
自分のことなら、耐えられた。下駄箱にゴミを入れられても、机を汚されても、私は「背景」としてやり過ごそうと決めていた。
けれど、この人は今、私が最も大切にしている『琥珀』を。「ゴミ溜め」と呼び、泥靴で踏みにじった。
煮え繰り返るような熱が、足元から全身を駆け巡る。これまで「石ころ」であろうとして、必死に殺してきた自分自身の感情が、マグマのような質量を持って喉元までせり上がってくる。
「……何様のつもりなの!」
喉の奥から出たのは、自分でも驚くほど低く、地を這うような咆哮の予兆だった。
「な……なんですって?」
「……いい加減にしなよ。私を叩く暇があるなら、自分で行って告白でも何でもしてきなよ!」
私は顔を真っ赤に染め、肩で息をしながら、西園寺を正面から射抜いた。
「私だってあの人たちに本気で好意があるなんて思ってないわよ! 言いがかりばっかりなのよ!」
剥き出しの叫び。完璧な「背景」であったはずの私の、最初で最後の反論が、資料準備室の扉を突き抜け、静まり返った旧校舎の廊下を激しく震わせた。その震動は、閉ざされた空間を飛び出し、古びた校舎の壁を伝って周囲へと広がっていく。
その、叫びが旧校舎中に響き渡る真っ最中のことだ。
扉へ向かって廊下をひた走っていた四人の影――一ノ瀬蓮、如月奏、橘駆、千ヶ崎響は、その「好意の全否定」という鋭い刃に正面から射抜かれ、あまりの衝撃に、扉の手前で劇的に足を鈍らせた。
自分たちの存在が彼女をそこまで追い詰めたという残酷な真実。自分たちが一方的に注いでいた「特別」が、彼女にとっては逃げ場のない苦痛でしかなかったという現実。そして、彼女の口から語られた決定的な「好意の拒絶」。
あまりに重い言葉の質量に、四人は扉に手をかけることさえできずに、まるで石像のように廊下で立ち往生する。
その、王子のプライドが打ち砕かれた一瞬の硬直。
立ち往生する王子たちの横を、遅れて現れたはずの三浦翔太が、迷いのない足取りで鮮やかに追い越した。
自意識や感情の荒波に囚われて足を止めた王子たちを背に、三浦だけが、ただ「目の前で起きているトラブル」という一点だけを見つめ、真っ先に扉の前へと到達する。
「王子様たちがどうとか、汚れるとか、勝手に決めつけないで! アナタが自分の臆病さから逃げてるだけでしょ! 自分で行く勇気がないから、私を叩いて満足してるだけじゃない!」
「お店のことまでゴミ溜めなんて言うなら、私は、絶対に許さない!」
咆哮の最後の一言が、空気を切り裂いて消えた、まさにその刹那。
三浦が資料準備室の扉に手をかけ、一気に押し開けた。
三浦が立ち止まった扉の向こう側。彼の背後に遅れて辿り着き、入り口に重なるようにして並び立った王子四人の姿を、西園寺の視界が捉えた。
自分が最も醜く、傲慢に振る舞い、他者の大切なものをゴミ箱へ捨てたその現場を、崇拝対象である「王子四人全員」に、入り口から冷徹で軽蔑な目で見つめられている、逃げ場のない現実。
西園寺麗香は、先ほどまでの優雅さを完全に失い、喉を震わせながらも、何一つ言葉を発することができず、ただ絶句してその場に立ち尽くした。




