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琥珀色の隠れ家――放課後の王子様たちは、背景な私を逃さない  作者: 寝不足魔王


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第三十二話:透明な処刑場と、沈黙の境界線

 カレンダーが新しい一枚を捲り、衣替えを済ませた生徒たちの白いシャツが眩しく校舎を彩る朝。けれど、一年C組の教室に足を踏み入れた瞬間に肌を撫でた空気は、初夏の爽やかさなど微塵も感じさせない、深海の底のような冷徹な静寂だった。

 私は、震える指先でカバンの紐を握りしめ、自分の席へと向かった。

(……大丈夫。一歩ずつ。ただ、座って、前を向いていればいいんだから。志乃さんの言った通り、私は私の『背景』を守らなきゃ)

 自分に言い聞かせながら椅子を引こうとした、その時だった。

 私の周囲、半径二メートル以内に座っていたクラスメイトたちが、まるで示し合わせたように一斉に席を立ち、ガタガタと音を立てて離れていった。

 そこには、私を中心とした円形の「空白地帯」が忽然と現れた。

 誰も私を見ない。誰も私に触れない。

 物理的な暴力よりも鋭く、精神を削り取るような「透明な排除」。私は、マジックの跡が薄く残る自分の机に、吸い込まれるようにして腰を下ろした。


 一時間目の数学が始まる直前。私は予習したノートと教科書を出そうとして、自分のカバンを開けた。

 けれど、指先に触れたのは、空虚な空間だけだった。

「…………えっ?」

 中を覗き込む。昨夜、誠司さんの前で平気なフリをして詰め込んだはずの教科書も、使い古した筆箱も、志乃さんへの報告を書き留めたあのノートも――何一つ、入っていなかった。

(……なんで? ちゃんと、入れたはずなのに……)

 混乱する頭で、私は周囲を見渡した。

 教壇近くでは、騎士団の末端と思われる女子生徒たちが、クスクスと肩を揺らしてこちらを見ている。

「……あの、すみません。……私の教科書、誰か見ませんでしたか?」

 私は、喉の奥で震える声を絞り出した。

 けれど、誰も答えない。

 隣の席の三浦くんに視線を向けると、彼は他の女子生徒から「三浦くん、これ、昨日の課題の解答!」と差し出されたプリントを受け取りながら、困ったような、どこか苦々しい表情で私を一瞬だけ見た。

「三浦、くん……」

「……おー、佐倉さん。忘れ物? 珍しいじゃん」

 三浦くんは、いつものようにチャラいノリを装って、自分の教科書を机の中央に寄せてくれた。

「ほら、俺の半分見せてやるよ。俺、あんまり見ないしな」

 それは、彼が他の子が忘れ物をした時に見せる、ごく自然な「日常のおせっかい」の一つだった。けれど、その瞬間。

 教室の入り口に立っていた聖華守護騎士団の副団長、東條が、冷徹な視線で三浦くんを射抜いた。

「三浦くん。余計な『施し』は、学園の秩序を乱しますわよ。……不純物には、それ相応の報いが必要なのですから」

 東條の声は、氷のように冷たく響いた。三浦くんは眉を寄せ、反論しようと口を開きかけたが、東條の後ろに控える十数人の女子生徒たちの「無言の圧力」に、言葉を飲み込まざるを得なかった。

 彼がこれ以上私を助ければ、彼自身の「日常」さえも騎士団に奪われてしまう。三浦くんは、悔しそうに教科書を自分の方へと引き戻した。

 彼のおせっかいという名の救いが、組織的な悪意によって、初めて物理的に遮断された瞬間だった。


 一ノ瀬くんは、窓際の席で拳を白くなるまで握りしめていた。

 彼は、私のカバンが不自然に軽いことに、そして私が教科書を失って立ち尽くしていることに、誰よりも早く気づいていたはずだ。

(……一ノ瀬くん、来ないで。……お願いだから、座っていて)

 私は心の中で、悲鳴に近い祈りを捧げた。

 三浦くんからの「君たちが動けば彼女の居場所がなくなる」という警告。そして、教室中に張り巡らされた騎士団の「期待の目」。

 一ノ瀬くんが立ち上がり、私に教科書を差し出せば、それはファンクラブにとって「排除を加速させる免罪符」にしかならない。

 彼は自分自身の「立場」という重すぎる鎖に縛られ、目の前で透明な処刑場に立たされている私を、ただ見守ることしかできない。

 その「善意の自重」が、皮肉にも私をさらに深い孤独へと突き落としていた。

 廊下からは、如月奏くんがこちらを伺う気配がした。けれど、彼は瞬時に数人のファンに囲まれ、「奏くん、次の一時間目の移動、一緒に行こうよ!」と、隔離されていく。

 王子たちが私を案じ、沈黙を守れば守るほど、ファンクラブは「王子たちも、ついにあの女を見捨てたのだ」という歪な勝利感に酔いしれ、その攻撃性を研ぎ澄ませていくのだった。


 授業中。教科書のない私の机は、あまりにも白く、空虚だった。

 先生の言葉は、私の耳を通り抜けて、どこか遠い場所で霧散していく。

 誰とも目が合わない。誰からも声がかからない。

 この教室という箱の中で、私だけが、存在を許されない幽霊になったかのような錯覚。

(……これで、いいんだ。私が耐えて、誰も巻き込まなければ、誠司さんの店は守れる。志乃さんのレシピも、汚されずに済む……)

 私は、昨日の誠司さんへの嘘を、お守りのように胸の中で反芻した。


 ……大丈夫。私は、背景なんだから。……何も、感じない。何も、聞こえない……


 自分を犠牲にすることで聖域を守ろうとする、あまりに危うい独りよがりの決意。

 けれど、その思考の殻は、一分ごとに、一秒ごとに、確実に薄くなっていた。

 一ノ瀬くんの震える背中。三浦くんの、初めて封じ込められたおせっかい。そして、教室の隅から向けられる、粘りつくような憎悪の視線。

 臨界点へと向かう秒読みは、もう、誰にも止められない速度で加速し始めていた。

 私はただ、落書きの消しきれていない机の上で、冷たくなった自分の指先を、じっと見つめ続けることしかできなかった。


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