第三十一話:空白の日曜日と、澱んだ自尊心
五月三十一日、日曜日。
五月の最後を締め括る朝は、抜けるような青空が広がっていた。街路樹の若葉が初夏の風に揺れ、道行く人々は軽やかな足取りで休日を謳歌している。けれど、開店前の『喫茶 琥珀』のカウンターに立つ私の心には、その眩しさがかえって残酷なほど白々しく感じられた。
誠司さんは朝から、志乃さんの今後のリハビリ施設への転院手続きや、主治医との詳細な面談のために病院へ向かっている。
「夕方には戻る。何かあれば店を閉めて連絡しろ。……戸締まりだけは、二重に確認しておけよ」
そう言い残した誠司さんの、いつにも増して慎重な言葉の裏に、私の周囲で起きている不穏な空気を察知しているような響きを感じて、私は心臓が冷える思いがした。けれど、私はただ「はい、分かりました。お気をつけて」と、精一杯の『背景』としての微笑みを貼り付けて送り出すことしかできなかった。
(……静かだな。今日は、本当に、怖いくらい静かだ)
誠司さんが出て行った後、私は一人、カウンターで豆の選別を始めた。トレイに広げたコーヒー豆をピンセットで一粒ずつ弾いていく、カチッ、カチッという硬い音だけが、店内の静寂に吸い込まれていく。
いつもなら、日曜日の開店直後には誰かしらが顔を出していた。
練習試合の報告を誰よりも早く届けに来る、泥だらけの橘くん。あるいは、開館と同時に静寂を独占しようとする一ノ瀬くん。
けれど、今日は開店から一時間が経ち、二時間が過ぎても、あの真鍮のドアベルが鳴る気配は微塵もなかった。
昨日の土曜日、三浦くんが騎士団の女の子たちに放った言葉が、呪いのように耳の奥でリフレインする。
『……あんまりやりすぎると、あいつら――一ノ瀬や奏たちが気づいて、この学園終わるぞ。あいつら余裕ないから、学園ごとぶっ壊しちまうかもな』
三浦くんのあの言葉は、彼女たちへの牽制であると同時に、隠れて様子を伺っていた王子様たちへの、冷徹なまでの「警告」でもあったのだ。
自分たちの存在が、私の居場所を奪い、学園という檻の中で私を窒息させようとしている。その事実に残酷な形で気づいてしまった彼らは、今、必死に自分たちの独占欲を抑え込み、この店への足を止めているのだろう。
(……それで、いいんだよね。これが、私が求めていた『背景』としての、正しい日常なんだ)
誰も来ない。私を見つける人もいない。
透明な存在として、誰の記憶にも残らずにひっそりと息を潜める。それが私の望んでいた平穏のはずだった。
なのに、どうして、こんなにも息苦しいんだろう。
ふと、隣の席の三浦くんの顔が浮かんだ。
彼は昨日、あんなに親身になって私の手紙を回収し、騎士団を追い払ってくれた。けれど、彼は今日ここにはいない。三浦くんにとっての「おせっかい」は、目の前で困っている子がいる時に発動する、日常的な手助けの一つに過ぎない。
彼は今頃、バイト先で他の仲間に冗談を言ったり、別の困っている誰かに手を貸したりしているに違いない。彼にとっての私は、数多く存在する「助けるべきクラスメイト」の一人に過ぎず、特別な執着を持って付き添うような対象ではないのだ。
その、深追いしないフラットな「おせっかい」の潔さが、今の私には、底なしの孤独として突き刺さっていた。
(……独り。本当に、独りになっちゃったな)
手が止まったトレイの上。
視界が不意に歪み、一粒の豆が、滲んで二つに見えた。
下駄箱の中に押し込まれていた、あの赤ペンの言葉が、澱んだ泥水のように心を満たしていく。
『琥珀ごと、この世から消えろ』
私一人が消えるだけなら、まだ耐えられた。石ころとして、どこか遠くへ転がっていけば済む話だ。けれど、志乃さんが命をかけて育て、誠司さんが不器用に、けれど何よりも大切に守り続けているこの『聖域』までもが、私の存在のせいで穢され、呪われている。
私がここに居続けることが、この店の歴史を汚し、騎士団という名の憎悪を呼び込む呼び水になっている。
その罪悪感が、一歩ずつ、私の自尊心を削り取っていく。
「……ごめんなさい、志乃さん。……ごめんなさい、誠司さん」
誰にも届かない謝罪が、冷え切った店内に空虚に響いた。
私は、自分がこの店に相応しくない「異物」であるかのような錯覚に陥り、カウンターの下で震える手を強く握りしめた。
一ノ瀬くんたちの自重も、三浦くんの不在も、すべては私が「背景」でいられなくなったことへの報いのように思えてならなかった。
午後になり、数人のお客様が来店した。私は機械的な動作で珈琲を淹れ、完璧な店員の仮面を被って接客をこなした。けれど、お客様が帰るたびに、店内の静寂はさらに重さを増していく。
夕方、西陽がカウンターを長く、鋭く切り取る頃、ようやく誠司さんが戻ってきた。
ドアベルの音がして、私は反射的に背筋を伸ばした。
「……戻ったぞ。陽葵、異常はなかったか」
誠司さんは、私の顔をまじまじと見つめた。その瞳には、私の僅かな震えさえも見逃さない、深い懸念が宿っていた。
「陽葵。顔色が悪いぞ。……手が、震えているじゃないか。今日はもう上がれ」
誠司さんがカウンター越しに、私の手に触れようとした。
私は咄嗟に、その手を引っ込めてしまった。誠司さんの温かな手に触れれば、今この瞬間に、せき止めていた涙と、学園での地獄のような出来事がすべて溢れ出してしまうと思ったからだ。
「えっ……。あ、いえ。……大丈夫です。……ちょっと、昨夜あまり眠れなくて、寝不足なだけですから。……すみません、心配かけちゃって。お水、飲んできますね」
私は、無理やり喉の奥で笑い声を絞り出し、精一杯の『店員』としての微笑みを顔に貼り付けた。
志乃さんの守った店に、学園の「いじめ」なんていう醜いノイズを持ち込みたくない。誠司さんを、私のせいで誰かと争わせたくない。
その一心で、私は生まれて初めて、誠司さんに決定的な嘘をついた。
「……そうか。無理はするな。……今日はもう閉める。お前は帰って休め」
誠司さんの不器用な優しさが、今の私には、熱した針のように痛かった。
店を出て、暮れなずむ街を歩く。
背後に残された『琥珀』の看板を見上げると、そこにある温かな明かりさえも、私が奪ってしまったもののように感じられた。
明日からは、またあの地獄のような月曜日が始まる。
王子たちの自重による沈黙。三浦くんの、おせっかいを終えた後の不在。そして、誰にも頼れず、一人で毒を飲み込み続ける孤独。
臨界点へと向かう静寂の秒読みが、私の心の中で、無機質な音を立てて続いていた。




