第二十九話:封じられた毒と、隣人の眼差し
五月二十九日、金曜日。下校時刻。
放課後を告げるチャイムが学園の喧騒に溶け込み、やがて部活動の掛け声や吹奏楽部の音色さえも遠ざかる頃。校舎は、オレンジ色の重苦しい夕闇にじわじわと侵食され始めていた。
私は、最後の一人が教室を出て行くのを待って、ようやく重い腰を上げた。
誰もいない廊下を歩く足音が、不自然なほど大きく響く。すれ違う清掃用具を持った女子生徒たちが、私を見るなり顔を見合わせてひそひそと笑い、わざとらしく足早に去っていった。
(……大丈夫。校門を出れば、そこは私の知らない世界。学園の外まで、この悪意は追いかけてこないはず……)
胸の奥で何度も自分に言い聞かせながら、私は人影のまばらな昇降口へと辿り着いた。朝の、あの切り刻まれたノートと百合の花の光景がフラッシュバックして、胃の奥がキュッと縮み上がる感覚に襲われる。
震える指先で、自分の下駄箱の扉に手をかけた。
ゆっくりと開いた視界の先にあったのは、朝の「浄化」という名の暴力よりも、さらに執拗で、澱んだ悪意の塊だった。
「…………っ!」
上履きとローファーの狭い隙間に、何通もの封筒が乱暴に、そして執拗に押し込まれていた。
封筒には切手も宛名もなく、ただ赤ペンで『佐倉陽葵様』と、嘲笑うような歪な筆致で書かれている。私はそのうちの一通を、吸い寄せられるように手に取った。
中から出てきた便箋には、びっしりと、吐き気を催すような汚泥の言葉が書き連ねられていた。
『泥棒猫。背景の分際で、王子様を汚すな』
『琥珀ごと、この世から消えろ』
店。志乃さんが命をかけて守り、誠司さんが今も大切に守り続けている『琥珀』の名前までが、この罵詈雑言の中に引き摺り込まれていた。
目の前が真っ暗になる。朝の嫌がらせは、まだ序の口だったのだ。
下駄箱という、生徒にとっての「個」の入り口であり逃げ場のない狭い空間に、逃げ場のない「毒」が封じ込められていた。
「……うわ、えっぐ。これ書いた奴、相当暇なんだな」
背後から、あまりに場違いなほど真っ直ぐな声が降ってきた。
驚いて振り返ると、そこには通学カバンを肩に引っかけた三浦翔太くんが立っていた。
「三浦、くん……! なんで、まだ……」
「ん? 忘れ物。……それより。ただのイタズラじゃ済まないだろ」
三浦くんは、私が隠そうとするよりも早く、迷いのない手つきで私の手から便箋を取り上げた。
彼は他の女子生徒が「三浦くん、これ見てよ、ひどくない?」と泣き出しそうな悩みを持って相談に来た時と同じように、いつものチャラい笑みを完全に消し、険しい表情で内容を凝視した。
「……『琥珀ごと消えろ』か。……趣味悪いなんてレベルじゃないな。佐倉さん、あんた昨日からずっと一人でこれ、耐えてたのか?」
「……返して、三浦くん。……君には関係ないことだから。これ以上、巻き込みたくないの」
私が震える手で取り返そうとすると、三浦くんはそれをひょいと避け、下駄箱に突っ込まれていた他の封筒も、一つ残らず丁寧に、けれど迅速に回収した。
「関係なくないだろ。隣の席の奴がこんなもん食らってて、知らん顔できるほど俺は薄情じゃない。……これ、俺が預かっとくわ。あんたが持って帰って、誠司さんに見せるわけにいかないだろ? 店を戦場にしたくないのは、あんたも誠司さんも同じはずだ」
「……でも、三浦くんに迷惑が……」
「迷惑なんて思ってたら、最初から声かけてないって。……ほら、顔上げろ。あんたがそんな死にそうな顔してたら、それこそあいつらの思うツボだぞ。こういう汚れ仕事は、おせっかいな隣人に任せときな」
三浦くんの言葉は、昨日他の子の重い荷物を「貸しな」と持ってあげた時よりも、ずっと低く、熱い「親身」さに満ちていた。
三浦くんの言葉は、昨日他の子の重い荷物を「貸しな」と持ってあげた時と同じように、目の前で困っているクラスメイトを放っておけないという、彼なりの一貫したおせっかいに満ちていた。
特定の誰かを救うという気負いではなく、誰に対しても分け隔てなく手を貸す、彼にとっては当たり前の日常としての優しさ。
その体温の通った「手助け」に、私の強張っていた心が、少しだけ解けていくのを感じた。
「……ありがとう、三浦くん。……本当に、助かった」
「……礼なら、全部片付いてから聞くわ。……ほら、さっさと帰れ。誠司さんが心配するだろ」
三浦くんは私の頭を、他の子を励ます時と同じようにポンと一度だけ叩くと、回収した手紙をカバンに押し込み、私を促すように歩き出した。
彼にとっては、これも今日一日の中で向き合ってきた「困っている誰か」への、切実な手助けの一つに過ぎないのだろう。その押し付けがましくない温かさが、今の私には何よりも救いだった。
三浦くんの背中を追うようにして校門へと向かう途中、私はふと校舎を振り返った。
そこには、三階の窓際や渡り廊下の陰から、私の様子を心配そうに見守りながらも、周囲の目に縛られて一歩も動けずにいる王子様たちの姿があった。
一ノ瀬くんは、眼鏡を指で押し上げ、握りしめた拳を震わせている。如月くんは、フードを深く被り、群がるファンを振り切ることさえできずに立ち尽くしている。
彼らは自分たちの「立場」を重んじるあまり、三浦くんのように陽葵の隣に立ち、泥を被ってやることもできない。
三浦くんは、彼らのその、あまりに余裕のない「特別な執着」を、遠くから鋭い観察眼で静かに見つめていた。
(……さて。あいつらも、いつまで指をくわえて見てるつもりかね)
三浦くんは、誰に聞かせるでもない独り言を吐き捨てると、オレンジ色に染まる通学路へと消えていった。
背後には、誰にも相談できず、一人で耐えることを決意した私の震える背中と、音もなく完成されつつあるファンクラブの巨大な包囲網だけが残されていた。




