第二十八話【前編】:静寂の亀裂と、澱んだ視線
五月二十九日、金曜日。
一週間の締め括りとなる朝の光は、初夏の爽やかさをかなぐり捨てたかのように、じっとりと肌にまとわりつく湿り気を帯びていた。
私はいつものように、始業十五分前に校門をくぐった。視線を斜め下、アスファルトの継ぎ目に固定し、自分の存在を景色の一部へと溶け込ませる。それが私の、この聖華学園という銀河で生き残るための「背景」としての作法だ。
(……大丈夫。あと一日で休み。お店に行けば、誠司さんがいて、志乃さんのレシピがある。そこだけが、私の本当の居場所なんだから)
自分に言い聞かせながら昇降口へと向かい、使い古された自分の下駄箱の前で足を止める。
けれど、その扉に手をかけた瞬間、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
扉の隙間に、一輪の萎びた百合の花が、無造作に突き刺さっていたからだ。
「……えっ?」
指先が震えるのを自覚しながら、ゆっくりと扉を開ける。
そこにあるはずの私のローファーは消えていた。代わりに詰め込まれていたのは、粉々に切り刻まれ、判読不能になった私の数学のノート。そして、その破片の山の上に、一枚のカードが鎮座していた。
金糸の刺繍を模した縁取りに、盾と剣を象った不気味な紋章。その下には、流麗な筆致でこう記されていた。
『不純物の排除を。ここは、貴女のような背景が土足で踏み入って良い聖域ではありません。 ——聖華守護騎士団』
「…………っ!」
私は思わず口元を押さえ、その場にへたり込みそうになった。
聖域。排除。
あまりに独善的で、けれど圧倒的な悪意が、下駄箱という狭い空間から溢れ出していた。
周囲で靴を履き替えていた生徒たちが、一斉に動きを止める。好奇の目、蔑みの目、そして「関わりたくない」という拒絶の目。
誰一人として、声をかけてくれる人はいない。
私は震える手で、切り刻まれたノートの破片を拾い集めた。視界が滲みそうになるのを必死に堪え、予備の上履きに履き替える。
逃げなければ。今すぐ、この場から。
一年C組の教室に入った瞬間、そこは北極の海のように凍りついていた。
登校してきたクラスメイトたちが、私が扉を開けた瞬間にぴたりと会話を止める。
私の席。
そこには、油性マジックで殴り書きされた『消えろ』『調子に乗るな』という無機質な言葉の羅列があった。机の横にかけていたはずの通学カバンは床に投げ捨てられ、中身が散乱している。
そして、その惨状を囲むように、三人の女子生徒が立っていた。
中心にいるのは、三年A組の西園寺麗香。
学園理事長の娘であり、生徒たちの頂点に君臨する「女帝」。彼女が一年生の教室に現れること自体が、異常事態だった。
「あら。ようやくお見えになったのね、不浄の背景さん」
西園寺は、扇子で口元を隠しながら、鈴を転がすような優雅な声で言った。
彼女の両脇には、副団長の東條と、特攻隊長の北条が、私をゴミを見るような目で見下ろしている。
「……西園寺、先輩。これは……」
「お黙りなさい。汚らわしい口から、王子様たちの名前を出すことさえ許しませんわ。貴女が身の程をわきまえず、あの方々に近づいた罪……万死に値しますことよ」
彼女の瞳には、狂信的なまでの「正義」が宿っていた。
自分たちこそが王子を守る騎士であり、私のような存在は排除すべきノイズ。その歪んだ理論に、言い返す言葉さえ見つからない。
その時、教室の後方から、場違いなほど軽い声が響いた。
「おー。朝から随分な賑やかさだね。女子の集会? 俺も混ぜてよ」
三浦翔太くんだった。
彼は隣の席の惨状を、鋭い観察眼で一瞬のうちに捉えながらも、顔にはいつものチャラい笑みを浮かべていた。
「三浦……貴様、一年生の分際で麗香様に口を利くとは」
北条が鋭い視線を向けるが、三浦くんはひらひらと手を振って、彼女たちの間を割って入るように自分の席に座った。
「いーじゃん別に。あ、西園寺先輩、今日の髪型もキまってますね。……でもさ、一年生の教室にそんな大物が来ると、みんな緊張して授業にならないから。……おせっかいだけど、そろそろ戻った方がいいんじゃない?」
三浦くんは、西園寺たちの威圧感を「日常の会話」で強引に中和していく。
彼は陽葵を助けるためではなく、あくまで「学園の平穏」という観点から、おせっかいを焼いているように見えた。
西園寺は、三浦くんの底の知れない余裕に、僅かに眉をひそめた。
「……フン。三浦翔太、でしたか。貴方の『博愛』も、度が過ぎると命取りになりますわよ」
西園寺は冷たく言い放つと、取り巻きを引き連れて、風を切り裂くように教室を出て行った。
嵐が去った後の教室内。
けれど、断絶は終わっていなかった。
三浦くんは自分の机から、他の女子生徒に借りていたらしい雑誌を「サンキュ。これ、面白かったわ」と返しに行き、別の女子には「あ、消しゴム貸して」と気さくに話しかけている。
彼は、誰に対しても等しく「日常」を共有している。
その三浦くんの当たり前の振る舞いの隣で、私は落書きだらけの机を見つめ、ただ一人、世界の果てに取り残されたような絶望に沈んでいた。




