第32話 零時の食事 ②
「ただいま」
玄関の扉を開け、鍵を取り出しながら言った。
靴を脱いで廊下に上がると、リビングの方からゲームの効果音が聞こえた。賑やかな、機械的な音だった。
「慎二、ただいま!」
返事はなかった。
リビングに入ると、慎二はソファに深く沈み込み、コントローラーを握りしめたまま画面を見つめていた。制服のままだ。鞄は玄関ではなく、廊下の床に投げ出してあった。
テーブルの上には、菓子の袋が一枚。中身は空だった。
「慎二、帰ってたの。塾は?」
返事がない。
「聞こえてる?」
慎二はコントローラーから目を離さなかった。画面の中では何かが走り、何かが爆発した。
尚子はため息をこらえて、キッチンに向かった。
夕飯の準備を始めなければならない。冷蔵庫を開けると、昨夜作り置きした根菜の煮物が残っていた。今夜は豚汁とご飯にしよう。
鍋に水を入れ、火にかけながら、ふと時計を見た。二十時三十八分。
——もう、こんな時間。
鍋がぐつぐつと鳴り始めた頃、菓子袋の音が気になった。尚子はリビングに戻り、テーブルの上の袋を手に取った。
ポテトチップスの大袋。完全に空だ。
「慎二、夕飯前にこれ全部食べたの?」
慎二が初めて振り向いた。その顔には、苛立ちがありありと見えた。
「部活終わって、お腹空いてるのに、何も食べるなって?」
声が大きかった。いつもの慎二ではない声だ。
「そういうことを言いたいんじゃなくて、夕飯が——」
「今から作るんでしょ!今、二十時過ぎてるじゃないか!」
「仕事があったのよ、夜の訪問が—困ってる人がいて、どうしても仕方な…」
「知ってる!毎晩知ってるよ!もう!仕方ないんだろ!」
慎二はコントローラーをソファに叩きつけ、立ち上がった。
「受験勉強しようにも、腹が減ってたら頭なんて動かない!お母さんは仕事、仕事、仕事、いつもそれだ!」
「慎二!」
慎二はすでに扉に向かい、靴を引っかけるように履き、玄関の扉を勢いよく開けた。
冷たい秋の空気が、廊下まで入ってきた。
「慎二、待って!」
扉が閉まった。足音が階段を駆け下りていく。
尚子は追いかけた。
サンダルのまま、階段を降りて団地の外に出た。
しかし、慎二の姿はもうどこにもない。
街灯が等間隔に立つ夜道に、人影はなかった。右の路地も、左の公園の方も、静かだ。
「慎二!」と一度呼んだ。声は暗がりに吸い込まれた。
スマートフォンに電話をかけた。コール音が六回鳴り、留守番電話に繋がった。
もう一度かけた。同じだった。
尚子はしばらく団地の入り口に立っていた。
秋の夜風が素足のサンダルを冷やした。
遠くで自動車が通り過ぎる音がした。
誰かの家の窓に、テレビの青い光が見えた。
—戻るしかなかった。
* * *
夕飯を作りきった。
豚汁と、白ご飯と、根菜の煮物。テーブルに二人分並べた。慎二の分には蓋をした。
風呂を沸かした。沸いたら声をかけようと思いながら、ソファに腰を下ろした。
スマートフォンを握ったまま、画面を見つめた。慎二からは、何の連絡もない。
——どこにいるんだろう。
今月に入ってから、何度こうなったか。
尚子は指を折って数えようとして、やめた。一週間に一回以上だ。それが四週続いている。
最初は、ただ帰りが遅いことへの不満だと思っていた。
しかし今はそれだけではないことが、尚子にも分かっていた。
慎二の表情が変わったのは、夜の訪問を始めてからだ。それ以前も、尚子の仕事は決して楽ではなかったが、夜の十九時半から出かけるようになってから、慎二は少しずつ、言葉を失っていった。
秋だ。中学三年の秋だ。
受験勉強の本番の時期に、母親は夜もいない。
腹が空いて帰ってきても、ご飯は作られていない。
——わかってる。わかってるよ、慎二。ごめんね…
スマートフォンが手の中で重かった。
いつの間にか、眠っていた。
夢を見たかどうかも分からぬまま、かすかな物音で目が覚めた。
玄関の鍵の音だ。
静かに扉が開き、靴を脱ぐ音がした。廊下を歩く足音は、できる限り小さく抑えられていた。
時計を見ると、深夜の零時を過ぎていた。
慎二がリビングの入り口に立った。
尚子と目が合った。一瞬、慎二の顔に何かが浮かんだ——謝りたいような、それでも意地を張りたいような、十五歳の表情だった。
「……蓋、してあるから、食べてね。豚汁は温め直して」
慎二は何も言わなかった。しかし台所の方へ歩いていき、電子レンジを開ける音がした。
尚子はもう一度目を閉じた。
夜の訪問は、尚子の体力も奪っていた。
風呂の湯は、もうぬるくなっている。




