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第31話 零時の食事 ①

 秋というものは毎年、同じ色で来るようでいて、その年ごとに違う重さを持ってくる。

 今年の秋は特にそう感じた。

 ケヤキの並木が色づき始めた住宅街を自転車で走りながら、尚子はふと、そんなことを思った。


 水谷義雄と君江の家は、古い住宅地の奥にある平屋建てだった。

 庭先にはまだ朝顔の蔓が残り、枯れた花がらが鉄格子に絡まっている。夏の名残りが、そのまま秋に持ち越されているような、そういう庭だった。


 尚子がケアプランの提案をしたのは、先月のことだ。

 武田ケアマネジャーが君江の担当者会議で、身体状況を説明した後、尚子は手を挙げた。


「就寝前の介助を、訪問介護で組めないでしょうか?」


 肺がんが肝臓とリンパ節に転移した君江は、要介護四。ホスピスへの入所を家族全員が望んでいたが、空きが出るのがいつになるかはわからなかった。七十六歳の君江を、七十九歳の義雄が毎晩一人で看ている。義雄は糖尿病を患い、足の筋力も落ちて久しかった。夜の着替えと体位交換、就寝前のケアを誰かが支えなければ、自宅での生活は続かない。


「え?、人手が足りなくて夜に回せる人員は居ない。って、佐藤さんから聞いてるけど」

「夜の十九時半から、三十分でできます。私がやります」と尚子は言った。


 武田は少し考えてから、水谷義雄の顔を見た。

 明らかに顔が明るくなっている。

 武田は頷いた。「よし、組もう!」


 それが、夜の訪問の始まりだった。


****


 玄関のチャイムを押すと、廊下からゆっくりとした足音が近づいてきた。

「はい、はい、待ってなさい!」

 声は元気だった。扉が開くと、義雄が立っていた。白い肌着の上にカーディガンを羽織り、眼鏡が少し歪んでいる。

「ああ!ひだまりさんですな!毎度どうも、毎度どうも!」

 義雄は満面の笑顔で、何度も頭を下げた。その頭の下げ方があまりに勢いよく、尚子は思わず前のめりになって「大丈夫ですか」と言いそうになった。


「奥様、今日はいかがですか?」

「それが、昨日より少し元気だと言うんですよ。機嫌もいい。さっきから私の文句ばっかり言うとります」

「文句言われるのは、元気な証拠ですね」

「その通りですわ!でも、もう少し言い方って物があると思うんです。四十七年連れ添っておりますが、未だに言い方が…」

 廊下の奥から声が飛んできた。

「聞こえてるわよ、あなた!そんなことをヘルパーさんに言うもんじゃないの!」

 義雄は肩をすくめ、悪びれもせずに笑った。「ほら、こんな具合で」


 尚子は笑いをこらえながら、上がり框で靴を脱いだ。

 君江のいる和室は、電気スタンドの柔らかな光に満ちていた。介護ベッドが部屋の中央に置かれ、その傍に仏壇があり、花が供えられている。仏壇の花は今朝切り替えたばかりなのか、まだ張りがあった。義雄が毎日切り替えているのだろうと、尚子は思った。

「村田さん!今日も来てくださったわ」


 君江は枕の上で顔を上げた。

 頬がこけ、肌は薄い和紙のように透けて見えたが、その目は確かに輝いていた。

「君江さん、今日は調子よさそうですね」

「ちょっとだけね。でも昨日よりはね。あなたが来ると思ってたから、頑張ったのよ」

「君江!私には、そんな事は一言も言わないじゃないか!」

 義雄が不満そうに声を上げた。

「あなた、今夜の薬はちゃんと出してくれた?」

「出した、出した!さっき言ったじゃないですか!」

「さっきって、いつのさっき?」

「三十分前ですよ!」

「三十分前のことなんて、覚えてないわよ、私は!」


 夫婦のやりとりに、尚子は手を動かしながら笑った。

 この家の空気には、深刻な現実と、それでも消えない温かさが混ざり合っている。君江が病んでいること、ホスピスを待っていること——それらは全て本当のことだ。だがその本当のことの上で、この二人は今夜も言い合い、笑い、生きている。


 就寝前の介助を進めた。

 薬の確認、着替え、体位の調整。君江の体は軽く、しかし細心の注意を要する。骨が薄く、少しの力でも痛みを感じることがある。

 尚子は声をかけながら、次はオムツ交換を行う。ゆっくりと動く。

「冷たくないですか?」

「大丈夫。あなたの手、温かいから」

 君江は目を閉じた。眠りに入っていくような、穏やかな息になった。


 義雄が廊下で待っている。

 尚子が廊下に出ると、義雄は照れたように言った。

「妻が、オムツ交換の時は外に出てろって言うんです。プライドがあるんでしょうな。いつもそうで」

「それは当然です」


 帰り際、義雄は玄関先まで見送りに来た。

「本当に助かります。あなたが来てくれると、妻の顔が違う。私では出せない顔をするんです。悔しいですが、ありがたい」

「また明日の夜、参ります」

「はい、はい、待ってますよ!今夜は私、眠れそうです」


 扉が閉まった。自転車のペダルを踏みながら、尚子の胸に、仕事の充実感がじわりと広がった。この感覚は何度経験しても新鮮だった——誰かの夜を少し安らかにすることができた、という感覚。


 帰ろう。慎二が待っている。


 時刻は二十時二十分を回っていた。



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