第30話 記憶を繋ぐ仕事②
副田慎二の部屋を訪れた翌金曜日、尚子はドアを開けた瞬間に気づいた。
—光?。
いつもは薄暗い室内が、今日は白く明るい。カーテンが、両側に大きく開いていた。副田がカーテンを開けているところを、尚子はこれまで一度も見たことがなかった。
「副田さん、今日は明るいですね」
「そうか?」と副田は新聞から目を上げずに答えた。しかしその声には、どこか弾みがある。
窓際のテーブルには、碁盤が出ていた。石が何個か並べられ、囲碁の本が一冊、開かれたまま置いてある。
「囲碁、勉強していらっしゃるんですか?」
「まあな」副田は少し照れたように鼻を鳴らした。
「息子から電話があってな。ネット碁を覚えたから一緒に打とうと言ってきた。北海道から…」
「まあ」尚子は思わず声に温かさが滲んだ。
「何年かぶりだな、息子と碁を打つなんて」
副田の横顔に、朝の光が落ちていた。脳梗塞で入院する前とは違う顔だ、と尚子は気づいた。
退院後、記憶が断片的になり、時折昔と今を混同することもある副田が、今日は静かに光の中にいる。
尚子は掃除を進めながら、心の中でこの変化を丁寧に拾い上げる。—カーテンを開けた。碁盤を出した。息子と連絡を取った。これは小さな変化ではない。
掃除が終わり、服薬を確認しながら、
「副田さん、お薬、今日もちゃんと飲めていますね」
「まあ、それだけはな」副田は頷く。そして少し間を置いて、「……最近、あまり食欲がなくてな」
尚子は手を止めた。
「どのくらい前からですか」
「先週くらいから。朝は食べられるが、昼や夜はどうも……」
「体重はどうですか。最近測りましたか」
「測ってない。どうせ減ってるだろうな」
尚子は副田の顔色を見た。頬のあたりが、前より落ちているように見える。手の甲の皮膚も薄くなった気がする。
「今日、武田さんに一度お話しします。食欲の件も記録に書いておきますね。訪問看護さんも次の訪問時に確認してくれると思います」
「大げさじゃないか」
「脳梗塞の後は、体の変化をしっかり見ておかないと。副田さんが安心して一人暮らしを続けられるように、私たちがいるんです。大げさでいいんですよ」
副田は少し目を伏せた。そして小さく頷く。
「……ありがとう」
事務所に戻ると、尚子はすぐに受話器を上げた。武田への報告は、今するべきだと思った。
カーテンを開けた喜びも、食欲の低下も——同じ一人の人間から来ている、二つのサインだ。
****
松下雪子の訪問日、部屋に入るなり、雪子の表情が明るいことに気づいた。ベッドに横になっていたが、目に光がある。
「尚子さん、見て!」
雪子がベッドサイドテーブルの引き出しから折りたたんだ紙を取り出した。広げると、子供の大きなクレヨンの字で「おばあちゃんへ。げんきでいてね。もえ」と書いてある。
「孫の萌ちゃんが書いてくれたの。先週、娘が持ってきてくれて」雪子の目がほころぶ。
「可愛い字ですね」
「ねえ、尚子さん。萌ちゃんにお返事を書きたいんだけど」
雪子の声に、小さな勇気の色があった。尚子は黙って引き出しから鉛筆を取り出した。
「やってみましょう。私が隣にいます」
雪子の右手は震えている。鉛筆を握ると、震えはいっそう大きくなった。しかし彼女は、ゆっくりと一文字ずつ書き始めた。
「も……え……ちゃん……へ」
歪んで、揺れて、それでも確かな五文字が紙の上に現れた。2分以上かかった。
書き終えると、雪子は鉛筆を置いて深く息を吐いた。
「できた……」
「できました!」尚子も繰り返した。
二人はしばらく、その紙を見つめた。声を出さずに笑った。それは達成を讃える笑いではなく、ただ今ここにいることを確かめ合うような、静かな笑いだった。
事務所に戻った尚子は、佐藤を見つけた。
「佐藤さん、少しよろしいですか。雪子さんのことで」
今日の手紙の話をした。右手の震えがありながらも、自分で書こうとしたこと。書き終えた時の顔のこと。
佐藤は少し考えてから呟いた。
「作業療法士さんとの連携を検討してもいいかもね。手指の機能を少し続けることで、もっと書けるようになるかもしれない。雪子さんが書くことに意欲を持っている今が、タイミングだと思わない?」
尚子は大きく頷いた。
「武田さんに相談して、ケアプランに入れられるか確認しましょう」
翌月、ケアプランに「手指機能維持のための軽微な作業活動の支援」という一項が加えられた。
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担当者会議が開かれた日の夕方、尚子は一人で記録を書いていた。
事務所に誰もいない。武田の居宅介護支援事務所の灯りも、もう消えていた。
今日の会議では、田中香子の夜間訪問の追加が決まった。主治医から報告された検査結果は異常なし。身体的な問題ではなく、認知症の進行による混乱の増大だった。夜間、誰かの声を聞いているうちに、過去の時間に引き戻されてしまう。それが長くなっている—。
娘の優子が会議に来ていた。久しぶりの再会だった。
「ヘルパーさんが気づいてくれなかったら、私、何週間も知らなかったと思います」優子は武田と尚子に頭を下げた。「母が誰かに話しかけていたなんて……電話では分からなかった」
尚子はその言葉を受け取り、しかし何も答えなかった。答えるべき言葉が思い浮かばなかったというより、香子が窓の前に立って話しかけていたあの朝の姿が、心の中にまだ残っていたのだ。
会議の終わりに、優子が静かに言った。
「母は昔から、朝ごはんを一緒に食べることを大事にしていました。父が仕事でどんなに遅く帰っても、翌朝は必ず一緒に食べる、って。それが母の、ここを守ってきた軸みたいなものだったと思います」
尚子は今朝、香子がテーブルについて言った言葉を思い出した。
「主人がね、朝ごはんは必ず一緒に食べる人だったの」—それが、今朝の食欲を呼び戻してくれたのかもしれなかった。記憶は消えても、記憶の感触は残る。過去の温かさが、今の食卓に繋がっていた。
ペンを置いて、尚子は窓の外に目を向けた。夜の街が、信号の色を変えながら流れている。歩く人、走る車、それぞれが誰かのいる場所へと向かっている。
——香子さんが窓の前で話しかけていた声。副田さんが開けたカーテン。雪子さんの歪んだ五文字。
記録に書けば、それぞれたった数行になる。しかし尚子にとって、これらはいずれも「今、ここにいる」というサインだった。記憶が失われていく人が、それでも今日という日を生きているという、小さくて確かなサイン。
気づくこと、報告すること、繋げること。ケアマネに、主治医に、家族に——それを一本の糸のように手渡していくこと。その糸が、孤独という暗闇の中に沈んでいく人を、引き留めている。
訪問介護という仕事は、きっとそういうものなのだと、尚子は静かに思った。華やかではない。見えにくい。でも、誰かの一日を繋いでいる。記憶が揺らいでも、今日という日がその人のものであるように、静かに守り続けている。
玄関の外で、梅雨明けの風が一陣、吹き過ぎていった。




