第33話 零時の食事 ③
翌朝、慎二は「行ってきます」とだけ、尚子に言った。
尚子は「行ってらっしゃい」とだけ、慎二に返した。
昨夜のことは、どちらも触れなかった。尚子も、慎二も、お互いに触れないことで、平和にやり過ごしたかったのだろう。
学校に行く慎二の後ろ姿が見えなくなってから、尚子はキッチンに戻り、流しの中にある碗を洗った。昨夜の豚汁の碗だ。
慎二はちゃんと食べていた。
今月だけで、慎二が夜に飛び出したのは四回だ。一度は夜の十一時まで戻らなかった。どこにいたのかを聞いても「コンビニ」と答えるだけで、それ以上は言わなかった。
心配をかけたとも、悪かったとも言わない。しかしその代わり、怒ることもなくない。ただ、無口になり、静かになった。
尚子にとって、慎二が静かになることは、怒ることより深刻に捉えていた。
* * *
朝のミーティングを終えた尚子は、一瞬躊躇したが、思い切って佐藤に声をかけた。
「佐藤さん、少しよろしいですか?」
小会議室に二人で入った。
「どうしたの?」と佐藤は言ったが、尚子の顔を見て、深刻な話である事を察した。
慎二の様子が一ヶ月前から変わっていること。
夜の訪問の後、帰宅すると会話がなくなっていること。
飛び出すことが続いていること。—受験が近いこと。
尚子は、事実だけを順番に言葉にしながら、初めて客観的に見えた気がした——一ヶ月の間、こんなにも慎二を蔑ろにする様な時間が積み重なっていたのか、と。
そして、決断した。
「私、水谷さんのところの夜の訪問を、降りようと思います」
佐藤はすぐには何も言わず、暫くテーブルの上の手帳を軽く指先で叩きながら、尚子の顔を見て気づいた。
「—慎二くんのために?」
「はい」
「水谷さんの夜のケアは、誰かに引き継がせる必要があるわ。すぐには難しいかもしれない」
「それは承知しています。引き継ぎに時間が必要なら、段階的にでも構いません。でも、できる限り早く外してもらえると助かります」
佐藤はしばらく考えたが、それから、静かに頷いた。
「分かった。やむを得ないわ。武田さんにも相談して、引き継ぎを調整する。夜間の登録ヘルパーに当たってみる」
「申し訳ありません」
「謝ることじゃない」佐藤は首を横に振った。
「あなたが母親として、慎二くんを優先するのは当然だわ。誰も否定しない。水谷さんのことは、チームで対応する。それは私たちの仕事でしょ。それより…」
「それより?」
「私が心配しているのは、…お金の事。これからお金がかかるっていう時に、割りの良い夜に稼げないじゃない?それは、慎二くんにとってもマイナス。—母親1人で子育てするって、並大抵じゃないわ。本当に、本当に難しい問題。その分、あなたに昼間の訪問を頑張って貰おうと思うの。」
「—いい?覚悟はある?」
「は、はい。ありがとうございます」
佐藤の思いやりが、心に沁みた。
小会議室を出た後、尚子は自分のデスクに暫く座った。
「稼がなければならない」それは本当のこと、現実だ。
夜の訪問があれば、月の収入はまとまって増える。慎二の高校受験には、受験料も入学金も必要になる。その先の三年間の学費も、通学定期も、教材費も。シングルマザーの家計に、余裕などというものはない。
それでも——と、尚子は思った。
慎二は今、ひとつの岐路にいる。これから先の自分がどこへ向かうかを、まだ言葉にできないままに抱えている。その時間に父親は居ない、母親も居ないなんて…。母親が支えていなければどうなるのか?いてもゲームに向かう背中しか見ないとしたら?
いつだったか、ゆりが言った。
「親の背中を見て育つなんて、古い人間みたいだけどね。でも、本当のことだと思う」。あの言葉が、今更のように尚子の中で鳴っている。
訪問介護という仕事が好きだ。
高齢者の一日に関わること、誰かの夜を少し安らかにすること、変化に気づいて繋ぐこと——それが好きだ。水谷の夫婦のことも、心から支えたいと思っている。
しかし今、自分が最も支えなければならない息子が、団地の三階で一人で空腹と、未来に向き合って戦っている。
どちらかを選ぶことが、どちらかを裏切ることのように感じられた。
それは本当だと思う。しかし同時に、選ばない事は、最も誰をも救わないことにも思い至る。
窓の外、秋の光が事務所の床に細長く落ちていた。その光の中で、小さな埃が静かに漂っていた。
—慎二。
帰ったら、夕飯を二人で食べよう。テレビをつけて、他愛のない話をしよう。それだけでいい。今夜は、それだけでいい。
尚子はゆっくりと深呼吸をして、記録ファイルを開いた。
今日の訪問は昼間に三件ある。水谷義雄の夜の訪問は、今夜が最後になるかもしれなかった。
それでも、今夜はちゃんと行く。引き継ぐまでの間、精一杯やる。それが、今の自分にできることだ。




