クロとわたし
明るさの戻った部屋で、私は泣いていた。
子供のように泣きじゃくり、クロの首筋に抱きついている。
いつもと同じ、ふさふさの毛皮。
クロは私を、食べなかった。
正確に言うと、クロは私の首筋に当てた牙を噛み合わせるように、口を閉じたのだ。目の前がすうっと暗くなり、私は意識を失った。
そして目覚めた時、自分を覗き込んでいるクロを見つけたのだ。
――焦げ茶の、瞳。
ほとんど反射的に、クロに抱きついていた。
それから今まで、ずっと泣いている。
首に、傷はない。痛みもない。
そして、私の心を蝕んでいた怒りと悲しみ、それに恐怖は綺麗に――綺麗すぎるほどに、消えていた。
クロが『食べた』のだ。
きっと、この子はそういう生き物。人の心を食べるいきもの。
世界各地に残る、黒い犬や獣の伝承の末裔。あるいはそのもの。
時代と出会った人が違えば、きっと化け物と呼んで追われた黒い獣。
今日、私は多分思い出を失った。恐らく約一年前、初めて出会った時も。
喰われた。もしかしたら人間として、一番大事なものを。
けれど、それは、私にとって痛い記憶だったのだ。
それからずっとこの子は、私から何を奪うでもなく、一年間も共にいてくれたのだ。
なんて私に都合がよいのだろう?
これが私の願望ではないと、誰に証明できると言うのだろう?
ようやく落ち着き始めて、首筋を強くぎゅーっとしていた腕の力を緩めた。
はーはーと肩で息をしながら、体をそっと離し、じっとクロの瞳を見つめる。
この子は……やはり、私の事を食べ物と見ているのだろうか?
クロがすっと顔を近付けると、私の左の頬から目尻までを舐めあげた。涙を綺麗に舐め取った熱い舌が、今度は右の頬から目尻までを舐める。
「クロのばか……ばかクロ……」
一度途切れた涙が溢れる。私はまた火が付いたように泣き出して、クロの首筋の毛にうもれるようにして泣いた。
熱い涙が後から後から溢れて、ひからびてしまいそうだった。
食え! 喰え! 私から持って行けるもの、全部持っていけ!
構うものか。一度は物理的に食べられる覚悟さえ決めたのだ。
私は決めた。
この子を養うために、自分の半分を使う。
獣の行動に人の心を投影するのは、愚かな事かもしれない。
この子の瞳は、獣の瞳だ。
人の理屈とは、違うだろう。この子はまっとうな生物種としての獣ですらない。
それでも、それが私の錯覚だったとして、私の涙を舐めたクロの舌に、私は労りや情愛なんてものを感じてしまったから。
私はクロと生きよう。
もしかしたら私は誰か人を好きになるかもしれないけれど、それでも私の半分をクロに渡そう。この子の事を見える人か、見えずとも信じてくれる人を選ぼう。
この子がいなくなるまで、私が死ぬまで、私は私のできる事をしよう。
クロが何を喜ぶかを考えて何かをしよう。
同時に私は私のしたい事をしよう。
それがクロのしたい事と同じである事を望もう。
ペットを飼うとは、そういう事だ。
人間が、真剣に人と違う存在と共に生きるというのは、きっとそういう事だ。
相手は人とは違う生き物だけど、確かに心が重なる瞬間があると、信じるから。
私はそのまま、声が枯れるまで泣き続けた。




