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ブラックドッグのいる日常  作者: 水木あおい


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クロ

 十二月二十三日。

 私は、戸惑っていた。

 いや、怒っているのだ。同時に、目尻に冷たい涙が滲むほど、ひどく悲しい。

 私はスマホを見ていた。さっき届いたメールを見ていた。

 見覚えはあるが、どうして今送られて来たのか分からない相手からのメール。

 メールを開き、文面を目で追っていくと同時に、ほとんど反射的に湧き上がってきた感情に、むしろ戸惑った。

 ――私は、何を怒っている?

 どうして、私は泣いている?

 前の彼からの、メールだった。

 分からない。分からないという事が分からない。

 今日メールをしてきた男は、一年前のクリスマス当日に一方的に振った挙げ句、着信拒否までしておいて、恥知らずにもまたやり直せないかと言うのだ。

 クリスマス・イブ前日に。

 なんだこのクリスマス一人で過ごしたくないだけの馬鹿は。

 怒って当たり前だ。いや、怒るべきだ。

 そしてこんなやつと一瞬でも付き合っていた過去の自分を情けなく思い、こんなクソみたいなメールを送るほどに軽く見られた――自分の価値をその程度と見積もられた事が悲しくなって、涙を流して当たり前なのだ。

 なのに、心に湧き上がる怒りにも悲しみにも、現実感がなかった。

 とりあえず着信拒否して、スマホを置いた。

 楽しかっただろ? 何を言ってるんだふざけんな。そんな事覚えてない――

 ……覚えて、ない。


 覚えて、ない?


 思考は過去へと飛ぶ。

 私は、あの日、どうやって帰ってきた?

 大人とは思えないひどいペースで酒をあおった事は覚えている。

 帰り道にクロと、出会った事も、その後の事も――

 

 覚えて、ない。


 そうだ。クロと出会った……気はする。その瞬間は覚えている。酔いに任せて、子牛ほどの超大型犬を怖がる事もなく思い切り抱きついた。

 その後は?

 どうやって帰ったのか覚えていない。酒に酔ったせいかと思っていたが、私は幸か不幸か記憶が残るタイプだ。

 人生初のひっどい失恋に限度を超えたのかとも思っていたが、歩いて帰れる程度には、意識がはっきりしていたはずだ。

 私は、何か、大切な事を忘れている。

 どこまでを『忘れて』いるのだ?

 どうして、この男の顔さえも思い出せないのだ?

 思い当たる事は、一つしかなかった。


 クロだ。


 恐る恐る振り向いた。

 赤い瞳と、目が合った。燃えるような、しかし静かな瞳。

 獣の瞳だ。

 人間には獣の事が何も分からないのだと分からされるような、時に絶対的な断絶を感じる、それでもこちらを見つめる瞳。

 見つめていたクロの輪郭が、薄れた。黒い毛がうっすらと境界を失い、先端からほどけるように白い靄になって消えていくように見える。

 ジジ……とLEDのはずの天井の蛍光灯が旧時代の白熱灯のような音を立てて、部屋の照明が一段薄暗くなった。

 クロの目が、薄闇の中で燃え立つように際立って赤々と輝く。

 ぞわり。背筋を寒気がひどくゆっくり駆け上がって、全身の血を冷やす。

 クロが――愛らしい愛玩犬などではないという事を、忘れつつあった。

 この子は『隣人』。人の隣にいるだけの、人でないもの。

 ――きっと、人の隣に長くはいられないもの。

 今のクロを、恐れない人がいるだろうか?

 そんな人いるわけがない。私はクロの事が大好きで、散々好き放題に触ってきた。それなりに長い時間を共に過ごしてきた。

 なのに、こんなにも私は恐ろしくて、怖いのだ。恐怖が私の全身を縛って、一歩も動けない。

 クロが、歩み寄る。いつとも同じように、甘えるように、私の肩に両方の前足をかけて、ゆっくりと押し倒す。

 抵抗もできずに、いつものように自分から倒れ込んだ。

 頭がラグに浅く沈む。全身の力が抜けていくようだった。

 クロが口を開けた。鋭い牙が並んでいる。

 それは知っていた。けれど、この子は、私に一度も牙を剥かなかった。

 これからも、そうだと思っていた。

「クロ……」

 体が動くようになった。

「私を……食べる、の?」

 クロが、私の目をじっと見据える。透き通るような深紅の瞳。

 いつもの焦げ茶から色は変わっても、私の大好きだった瞳だ。

 いつか、この子がいなくなると思っていた。

 いつか、この黒犬さんとの生活は終わると思っていた。

 今が、その、いつか。

 私が怖かった終わり。

「……食べていいよ」

 私はこの子に、本当にたくさんの物を貰った。

 この子を喜ばせたいと思った。

 この子の隣にいたいと思った。

 この子のために、自分の時間を使おうと思った。

 犬が大好きだった私だけど、私には生き物と添い遂げる覚悟がなかった。責任を負う事を考えると、選べなかった。

 けれど、今はその覚悟があるし、責任を果たそうとも思う。

 この子になら、私は全てを許せるのだ。そう、食べられる事さえ。

 それが、私の、死を意味するとしても。

 クロが先にいなくなるよりは、その方がいい。

 私は知らず知らず微笑んでいた。

 もう、何も怖くない。

「大好きだよ、クロ」


 クロの濡れた牙が、私の首筋に食い込んだ。




挿絵(By みてみん)

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