クロとブラッシング
今日は、なんでもない日だが、私はとても幸せだった。
私の手の伸ばす先にクロがいて、我が家の黒犬さんは今、気持ちよさそうに目を閉じている。
手にはシャンプーをする際に買ったブラシが握られていて、それで、もつれた毛を丁寧にくしけずっていく。
柔らかくたっぷりとした毛の束を、少しずつふんわりとさせていく度に心が落ち着き、同時に大興奮して忙しい。
ああもう! このもふもふさんめ!
でも、私がクロにできる事は、本当に少ない。
散歩とお風呂とブラッシング、それに加えてたまにおやつ。
それだけだ。
私は、クロに沢山のものを貰っているのに。
クロがいない生活を、もう上手く思い出せないぐらいに、今が幸せなのに。
いや、嘘だ。
私は思い出せる。
とても、はっきりと。
――思い出したくないだけなのだ。
早く家に帰りたくて。
でも、誰もいない家に帰りたくなくて。
疲れて、帰ってきて、一人で。
電気をつけたアパートは、明るくなったのに、電気をつける前より、何倍も寂しく見えて。
そして、画面の向こうには、楽しそうな世界が広がっている。
私も犬を飼えたら、違ったのかな。
誰かがそばにいたら、違うのかな。
そんな風に思って。
でも、何も、できなくて。
ただ、見ているだけで……。
それは、遠い過去でもなんでもない。
時間にしたら、たった一年。
クロがいなくなったら、またそうなる。
それは、怖い、な。
ペットをなくした時、ペットロスの悲しみを前に、どうすればいいかはみんなが口を揃えて言う。
『新しいペットを飼う事』
前の子との思い出を大切にして、新しい子を愛する事。そうやって、悲しみよりも多い喜びを積んでいく事。
それは、正しい。
でも、それは、できないのだ。
……こんな子が、他にいるはずない。
手を止めた。
ブラッシングを終えて、本当にふんわりとした漆黒の毛を、そっと撫でた。
「……おしまい、ね」




