# 1話 指先に残ったもの
胸が重い。
いや、比喩ではなく、本当に重い。
目を開けると、琥珀色の目がすぐ近くから僕を見下ろしていた。
ナギだった。
「重いって……」
冬ならありがたい長い毛も、今は暑いだけだ。
本人にその自覚があるのかは知らないが、少なくとも僕の胸の上に乗るには大きすぎる。
カーテンの隙間から落ちる光が黒に近い毛並みを照らし、その外側には、ひと回りなぞるような薄い輪郭が浮かんでいた。目を凝らすと、ようやく線を追える。ところどころが滲み、短い尖りも混じっている。ナギが見ているのは、餌の棚だった。
「わかった。起きるから」
目元をこすると、指先が濡れた。夢を見ていた気はするが、思い出そうとしても何も残っていなかった。
まあ、夢なんてそんなものだ。
それ以上考えるのをやめ、身体を起こそうとする。けれどナギは動かない。
「……起きるから。どいて」
通じたのか、通じていないのか。大きな身体を遠慮なく僕の胸へ預けたままだ。
「ご飯だろ」
もう一度身体に力を入れると、ようやくナギはベッドから降りた。どす、とまではいかないが、それなりの音がする。大きな背中が、そのまま床を横切っていった。
餌を用意すると、輪郭の張り出しが緩み、毛並みの近くへ戻る。尖りだけは、まだ残っていた。
「まだ何かあるのか」
餌を食べ終えたナギは窓の前へ座り、閉じたカーテンを見上げた。
「そっちか」
カーテンを開ける。朝の光が一気に部屋へ入ってきた。
ナギは窓際へ上がり、そのまま身体を伏せた。残っていた尖りも、今度こそ消えていく。
分かりやすい。
人間もこれくらい分かりやすければいいのに、とたまに思う。
しゃがんで背中を撫でると、首元で指が少し引っかかった。
深い藍色の首輪。
長い毛にほとんど埋もれていて、斜めに走る銀色の編み目だけがところどころ覗いている。
猫用にしてはちょっと凝っている。
「最初から窓って言えよ」
ナギは外を見たまま、尻尾だけを一度動かした。言ったつもりなのかもしれない。
---
大学へ着いたのは、講義が始まる少し前だった。
講義棟の入口に、案内図とスマートフォンを交互に見ている学生がいる。
目を凝らすと身体の周りに浮かぶ薄い線が、細かく揺れていた。
焦っている。
たぶん。
最近なぜかそれが見えるようになってから、こういう判断をすることが増えた。
確信はない。直接確かめたこともない。だから、大体の雰囲気で判断している。
その揺れが何を意味するのかなんて正確にはわからないし、ましてやその原因なんて、もっとわからない。
教室が見つからないのかもしれないし、待ち合わせ相手が来ないのかもしれないし、単にスマートフォンの充電が一パーセントなのかもしれない。
少し前の僕なら、たぶんそのまま通り過ぎていた。余計なお世話かもしれない。そう考えて、
今も少し考えた。
でも、輪郭は細かく揺れたままだった。
「どうかしましたか」
声をかけると、学生が驚いたように振り返る。
「あっ、えっと……三号館って、こっちで合っていますか」
「はい。合っています。このまま外に出て右です」
「あ、ありがとうございます」
頭を下げて、学生は小走りで入口を出ていった。その背中を見送る。
さっきまでの揺れは少し収まっていた。少なくとも、見当違いではなかったらしい。こういう時は助かる。
以前なら「声をかけて迷惑だったらどうしよう」で終わっていたところを、今は一歩だけ先へ進める。
僕にとって輪郭は、踏み出していい理由を探すための手がかりだった。
講義室へ入ったのは開始五分前。
一般教養の講義は、まだ後ろ半分に空席が目立っている。
僕はいつもの長机へ向かった。後ろから二列目、窓側。
四席あるうち、僕が座るのは窓側から三番目だ。通路側に鞄を置いておけば、空席の多いこの講義では、たいてい長机を一人で使える。
別に一人でいたいわけではない。
いや、たぶん一人でいたいのだと思う。
少なくとも、知らない人と肩を並べて座るよりは楽だ。
今日は、いつもの机の一番窓側に、見覚えのない女子学生が座っている。
彼女はノートにペンを走らせていた。
ペンケースと講義資料は、開いたノートの端にきっちり揃えて置かれている。
机の上だけが、先に姿勢を正しているみたいだった。
とりあえずもっと後ろの席に座ろうかな、と近づきながら、なんとなくその女子学生の黒い髪から肩、机に置かれた袖口へと目を移して、いつものように、その少し外側へ視線をずらして目を凝らす。
そこで足が止まった。
いつもの席の目の前なのに、そこから進めなくなった。
彼女はノートの行末まで書いてから、こちらを振り向いた。
黒い前髪の隙間に覗いた瞳が、斜めから差す窓明かりを拾って、一瞬だけ銀色に見える。
こちらを向ききるころには光が外れ、前髪の影から、たれ気味で眠そうにも見える灰色の目が僕を見た。
「何かついていますか」
彼女が首を傾ける。
肩で揺れた髪の縁から肩へ、肩から袖口へと、もう一度目で追った。
「え……」
一度、目を逸らして近くの席へ目を向けた。
前の学生にも、その隣にも、いつも通り薄い輪郭が浮かんでいる。
もう一度彼女に視線を戻す。
そんなことがあるのか。
彼女には、輪郭がなかった。
これまで見た人間には、例外なくあった。
薄くても、目を凝らせば見えた。でも、ない人間は初めてだった。
「あの、どうかしましたか」
「いえ、なんでもないです。すみません……」
完全に見ていた。たぶん、かなり見ていた。
今のは普通に失礼だった気がする。
見つめていたことを嫌がられたのか、それさえ判断できなかった。
別の机へ移ればいい。空席はいくらでもある。
でも、これだけ見つめたあとで露骨に離れるのも、それはそれで感じが悪い。かといって、いつもの席へ座る気にもなれなかった。
結局、僕は同じ長机の通路側の端へ座った。
彼女との間には空席が二つ。同じ机の隅と隅。
僕の中の折衷案だった。
気にはなった。ものすごく気になった。
でも、これ以上じろじろ見るわけにもいかない。隣で紙の動く音がしても、顔は向けられなかった。
講義が終われば、彼女も席を立つ。
こういう人もいるんだな、で終わる。
気にはなるけど、それまでのことだ。
そのうち、法則でも見つかるかもしれない。
---
講義の途中で室内の照明が落ち、スクリーンへ教授の資料が映る。靴の側面に何かが当たった。足元を見ると、暗い中でも白い消しゴムが転がっているのが見えた。
顔を上げ、彼女の机へ目をやる。見える範囲に、消しゴムはない。彼女のものかもしれない。
拾い上げたときには、教授が説明を始めていた。彼女はスクリーンを見ている。空席二つを挟んでいるため、手を伸ばしても届かない。声をかけるほどでもない。というか、講義中だ。
僕は消しゴムをノートの脇へ置いた。
---
講義終了のチャイムとともに教授が資料をまとめ、照明が戻る。教室の空気が緩む中、僕は消しゴムを手に取った。立ち上がり、空いた二席の後ろを通る。彼女の斜め後ろで足を止めた。
「あの。これ、落としました?」
彼女が振り向く。
一瞬、何のことか分からないような顔をして、それから僕の手元を見た。
彼女は小さく頭を下げ、右手を伸ばす。受け取る指先が、僕の指に触れた。
その瞬間だった。
講義室の景色が変わった。
「っ……」
普段なら、一人ずつ目で捉えなければ浮かばない輪郭が、今は一斉に鮮明になっていた。
視界のあちこちから押し込んでくる。
反射的に手を引いた。
こめかみの奥が脈打つ。
前方の学生の輪郭には、小さな尖りがいくつも浮かんでいた。
見ようとしなくても分かる。
一つ、二つ。
数える必要なんてないのに、勝手に目に入ってくる。
視界の端を別の輪郭が横切った。
そちらを追う。
開いた扉の向こうを、誰かが歩いていた。
その人のまわりまで見える。
こんな距離から?
「……」
目を置く場所がない。
見ないようにしようとすると、今度は視界の端が気になる。
耐えきれず、彼女を見た。
消しゴムを持ったまま、こちらを見ていた。
彼女だけは、何もない。
「……どうかしましたか」
半歩だけ後ろへ下がった。
「少し目が痛くなって。もう大丈夫です」
話しているうちに、鮮明だった線が少しずつ薄れていった。
いつもの濃さ。
目を凝らして、ようやく追える程度。
戻った。
こめかみには、まだ少し痛みが残っている。
彼女はすぐには返事をしなかった。
僕の顔を見ている。
何を考えているのか。
分からない。
輪郭がないせいで、いつもなら拾えるはずの手がかりもない。
「そうですか」
やがて、それだけ言った。
消しゴムをペンケースの中央へ戻す。
「消しゴム、ありがとうございました」
「いえ、すぐそこに落ちただけですから」
「それでも、これがないと困るので」
「……」
僕なら、二本線で消したことにする。そこまで気になるものなのか。
「間違えた場所が残っていると、あとでそこばかり見てしまいます」
内心を読まれたかのような台詞に、
「……そうなんですね」
結局、それしか言えなかった。
僕は自分の席へ戻った。ほんの数歩を歩くあいだも、周囲が一斉に鮮明になった瞬間が頭から離れない。こめかみの奥を走った痛みまで、まだはっきり覚えている。触れただけで見え方が変わったことは、一度もなかった。
空席二つを挟んだ向こうで、彼女が帰り支度を始めた。ペンケースを閉じ、鞄へ伸ばした左手の袖口から、銀色の腕輪が覗いた。
このまま帰られたら。
そこまで考えて、少し迷った。
何をするつもりなんだ、僕は。
もう一度触らせてください、とでも言うのか。
完全に変な人だ。
でも、このまま帰られたら、さっきの変化が彼女と関係あるのか確かめようがなくなる。
「あの」
声が出た。
彼女がこちらを見る。
「前から、この講義を受けていましたか」
ペンケースを持ったまま、彼女が一度瞬きをした。
「はい。前期の最初からです」
前期はもう半ばを過ぎている。つまり、その間、何度も同じ教室にいたことになる。
「すみません。見覚えがなくて」
「よくあるので、気にしないでください」
よくある?
灰色の瞳をした人なんて、それだけでも少し目につきそうなのに。
大学には色々な人がいる。もしかしたら、カラーコンタクトなのかもしれないし。でも、そういったものを付けていそうな感じはあまりない。
儚げと言ったら大袈裟だけど、かなり物静かな印象だ。
……物静かな人がカラーコンタクトをしない理由もないか。
彼女に今まで気づかなかったのは、その雰囲気のせいかもしれない。
それでも今は、輪郭の欠落の方が彼女の存在を主張していた。
次にこの講義があるのは一週間後。
同じ講義を受けているからといって、また近くに座るとは限らない。
彼女はペンケースを鞄へ入れ、ファスナーを閉じた。
持ち手へ手をかける。
立ち上がる。
「あの……」
また声をかけてしまった。
彼女が止まる。
「次も、その席に座りますか……」
口にしてから、ひどく馴れ馴れしい質問だったと気づいた。
「……どうしてですか」
当然の質問だった。
「いや、その……」
輪郭がない理由を知りたい。
触れた時に何が起きたのかも知りたい。
でも、どちらも説明できない。
「……すみません。今のは忘れてください」
何をやっているんだろう。
彼女は少しだけ黙った。
それから、自分の席へ目を落とす。
「空いていれば、座るかもしれません」
「え、あっ、はい」
判断に困る。
社交辞令か、本意か。
彼女は鞄を持ち上げ、僕の後ろを通って通路へ出た。
「では、また明日」
明日。
聞き返そうと振り返った時には、彼女はもう出口へ向かっていた。
この講義が次にあるのは、一週間後だ。
僕は席に残ったまま、彼女が出口を抜けるまで見送った。
---
帰宅すると、ナギが玄関まで迎えに来た。
「ただいま」
ナギは低く鳴き、また餌の棚を見た。夕食にはまだ早いが、ナギには関係ないらしい。
「わかった。早いけど、ご飯にするから」
靴を脱ごうとした時だった。ナギが僕の右手へ鼻を寄せた。
「ん?」
手のひらではない。人差し指と親指の先。そこを何度も嗅ぐ。
「何かついてるか?」
ナギは一度顔を上げた。
僕の背後へ首を伸ばし、鼻先を何度か動かす。
誰もいない玄関。
それからまた、右手へ戻ってきた。
なんだ。
右手に目を落とす。
ナギが嗅いでいる場所。
今日、そこに触れたものを考える。
スマートフォン。
ペン。
ノート。
ドアノブ。
財布。
消しゴム。
彼女の指。
最後の一つが浮かんで、すぐに否定した。
朝から同じ指で触れたものはいくらでもある。彼女の匂いだと考えるのは、どう考えても飛躍していた。そう思うのに、今日あったことを考えると、完全には切り捨てられなかった。
指先を嗅ぎ直したナギが、そのまま頬を押しつけてくる。
柔らかく輪郭の縁が膨らんだ。機嫌がいい時の形だった。
「……何の匂いなんだ?」
ナギは喉を鳴らしたまま、もう一度頬を押しつけた。




