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輪郭圏外――境界の向こうの失踪者  作者: ねむZ
第一章 現代編――輪郭のない彼女
3/3

# 2話 動かないでください

翌日、別棟の「情報社会とコミュニケーション」の講義室へ入った。

昨日とは違う部屋なのに、長机の並びはよく似ている。後ろの窓側にある四人掛けも空いていたので、いつもどおり窓側から三番目に座る。

冷房の風が汗ばんだ首筋に当たる。ちょうどいいと思ったのは最初だけで、しばらくすると寒くなってきた。椅子を少しずらす。今度は机との位置が微妙に合わない。まあ、これくらいならいいか。


昨日、あの人は「また明日」と言った。

帰ってから自分の時間割を見直したけれど、昨日受けた講義はやっぱり一週間後だった。曜日を間違えているとか、そういうわけではなかった。

大学のどこかで会うという意味だったのかもしれない。もっと単純に、別れ際の癖だったのかもしれない。

考えても分かることではないので、そこまでにした。


前方で笑っている学生へ目をやる。身体に重なる輪郭は、普段どおりぼやけていた。

取り出したノートへ視線を落とし、日付を書きかける。


そこで、妙なことに気づいた。


視線を外したはずの輪郭が、まだ視界の端に残っている。さっきより、少しだけ濃い。

顔を上げると、机の横に人が立っていた。


肩までの黒い髪。灰色の瞳。

昨日、僕があれだけ見つめてしまった人だった。


彼女の唇が開きかけたまま止まった。それから、何事もなかったように口を開く。


「おはようございます、朝倉さん」


名前を呼ばれ、挨拶より先に疑問が出た。


「僕の名前、知っていたんですか」


「はい。同じ講義の出席確認で、何度か呼ばれていたので」


「ああ、なるほど」


彼女は通路側に残っている空席へは向かわず、僕の長机の窓側を見た。


「ここ、いいでしょうか」


「あ、はい。どうぞ」


昨日は一番窓側に座っていた。

今日もそうするのだろうと思って、その動きをつい目で追う。


彼女は窓側の端へ鞄を置いた。

それから、僕のすぐ隣の椅子を引いた。


……あれ?


四席のうち、真ん中の二席が埋まった。肩と肩の間が急に狭くなった。

昨日、次もあの席に座るのかと聞いたせいだろうか。

あの質問を、近くに座ってほしいという意味に取られた?

でも、僕は本当に席のことを聞いただけだ。

だからといって、今さら「そういう意味ではなかったんです」は色々とおかしい。そもそも隣に座ること自体、別に悪いことではない。


そんなことを考えている間に、彼女はノートとペンケース、講義資料を取り出し、机の上で端を揃えた。昨日と同じ並べ方だった。

準備を終えた彼女がこちらを向く。灰色の瞳が僕の顔を見たあと、肩のあたりで止まった。


「朝倉さん、ペット、飼っていますか」


「……え?」


「動かないでください」


彼女が隣から身を寄せる。灰色の瞳が思ったより近くまで来て、反射的に顔を前へ戻した。


正面にいる学生たちの輪郭が浮かんだ。

前の席。斜め向こう。通路を歩く人。

輪郭はどれも普段より濃い。縁の細かな震えも、小さな尖りも、目を凝らさなくても入ってくる。

昨日ほどではない。それでも、意識を別の場所へ向けようとすると、そちらにも線がある。

昨日のようにこめかみが痛むかと身構えたが、何ともなかった。


彼女の指が、僕の肩から何かを摘まみ取った。


「毛がついていました」


彼女が身体を離す。

指先には、先が黒くて根元が白っぽい、長い毛が一本挟まっていた。

周囲の輪郭から、さっきまでの鮮明さが失われていく。


昨日は指先が触れた瞬間に変わったと思っていた。けれど今日は、彼女が机の横に立った時点で、もう輪郭が濃くなっていた。

触れたからではなく、近づいたから?

まだ二回目だ。決めつけるには早い。


彼女が指先の毛をじっと見ていた。


「それ、たぶんうちの猫のです」


「猫。写真はありますか」


「はい。ありますよ。猫、好きなんですか?」


「はい。かなり」


スマートフォンを取り出す。ナギの写真は探す必要がないほど入っていた。

床に長く伸びているナギの写真が目についたので、それを選んだ。

横の座布団より、伸びた身体の方がずっと長い。


「名前はナギです」


「ナギ」


彼女は確かめるように名前を口にした。それから画面へ身を乗り出す。


近い。


前方で頬杖をついている学生へ目を向ける。

輪郭はまた濃くなっていた。ただ、毛を取ってもらった時ほどではない。

近さだけで全部が決まるわけでもなさそうだ。


考えながら顔を戻すと、灰色の瞳がすぐ目の前にあった。

僕は反射的にスマートフォンを差し出した。

彼女は両手で受け取る。

……渡すつもりはなかった。


「大きいですね」


「大きいです。メインクーンとか、ああいう猫に近いと思います。毛まで含めると、ちょっとした犬くらいあって」


彼女は頷いたが、僕の方は見ていない。

画面の中の琥珀色の目は、迷惑そうにカメラを見ていた。


彼女は躊躇なくスマホの操作を始めた。

画面を拡大。毛並みが画面いっぱいになる。

黒に近い長い毛の隙間から、白っぽい灰色の根元が見えた。


「……黒いのに、中が明るいんですね」


「そうなんです。抜けた毛も、よく見ると二色で」


そこまで言って、黙った。

聞こえたのか、聞こえてないのか、彼女は画面に見入っていた。

親指をゆっくり動かし、ナギの顔を出しては毛並みに戻す。


小さく、何か聞こえた。


「……大きいもふもふ」


「え?」


指が止まる。


「今、大き――」


「言っていません」


「……聞こえましたけど」


「そうなんですか?」


……聞き間違いではなかったと思う。

どうしてそこまで否定するのかは分からないけれど。


講義開始のチャイムが鳴る。彼女はそこでようやく画面を消し、スマートフォンを返してきた。


「すみません。長く見てしまいました」


「いえ。大丈夫です」


受け取った時には、彼女はもう前を向いてノートを開いていた。


彼女の輪郭は相変わらず見えない。それでも、ナギへの反応はわかりやすかった。


---


講義の途中で、教授が資料を机へ置いた。


「では、ここからはグループワークに入ります。二人一組で、隣同士でも構いません」


あちこちで椅子が動き始めた。前の方では、振り返った学生同士がすぐ組を決めている。

横を見ると、彼女も僕を見ていた。

この距離で、ほかの人を探しに行くのも変な話だ。それでも一応、聞いておいた方がいい気がした。


「他に組む人、決まっていますか」


「いえ。まだです」


「じゃあ、その……よかったら、一緒にやりますか」


「はい。お願いします」


彼女は迷わず資料を二人の間へ寄せた。


「お願いします」


返事をしてから、少し肩の力が抜けた。僕の方だけが、ずいぶん構えていたらしい。


配られた用紙の上には、名前を書く欄が二つあった。

そういえば、まだ名前を知らない。向こうは僕の名前を知っているのに、僕は「昨日の人」としか呼べないままだった。

先に自分の名前を書いて、ペンを渡す。


朝倉朔也。


その隣へ、彼女が整った字を書いた。


白銀澪。


「朝倉さん」


「はい」


「朔也、と書いて、さくやと読むんですか」


「そうです。あさくらさくやです」


僕も右側の名前を指で示す。


「しろがね、で合っていますか」


「はい。しろがねみおです」


白銀。


昨日、光の加減で一瞬だけ銀色に見えた目を思い出した。左手首には銀色の腕輪もあった。偶然にしては、よく似合う名字だと思う。

名字が似合う、なんて変な言い方だ。名は体を表すというのとも、性質が違う気がした。


白銀はもう課題文を読んでいる。僕も用紙を二人の間へ戻した。


「課題を読みましょう」


「そうですね」


テーマは『SNSは人間関係を広げるか』

広げることもあるし、面倒になることもあるだろう。そう言ってしまえば終わりそうな話だ。でも、もちろんそれでは課題にならない。


「どうしますか」


「僕、こういう正解がないものは苦手なんです」


「そうですか? 私は逆です」


「逆?」


「正解がある方が苦手です」


それはおかしい。正解があるほうがいいはずだ。


「どうしてですか」


白銀は課題文へ目を戻した。


「間違えるので」


つい笑いが漏れた。

彼女の眉が寄る。


「すみません。冗談なのかと思って」


「本当のことです」


「そうですよね……」


昨日の消しゴムのことを思い出した。間違えた場所が残ると、あとでそこばかり見てしまうと言っていた。きっと今も真剣に答えてくれたのだろう。

笑ってしまったのは、少し悪かった。


白銀は資料に線を引き始めた。大事なところを短い言葉にして、ノートへ並べていく。見ていて気持ちがいいくらい迷いがない。


僕も何か書こうとして矢印を引いた。そこから何へつなげるか考えているうちに、矢印だけが残った。

こういうのは、頭の中で考えている間はなんとなく分かった気がする。紙へ書くと、急に怪しくなる。


「白銀さん、まとめるの、上手いですね」


「そうでしょうか」


「少なくとも、僕よりは」


白銀が二冊のノートを見比べる。


一秒、二秒。


「……ごめんなさい」


「なぜ謝るんですか」


「その……思ったより大変そうだったので」


「大変そう」


「はい」


白銀は僕のノートから目を逸らさなかった。


少しは否定してほしかった。


---


「残り十分です」


教授の声が響いた。

僕は時計へ目をやった。


「そろそろまとめますか」


「そうですね」


白銀は自分のノートをこちらへ向けた。いつの間にか僕が口にした意見も書き込まれている。僕のノートでは行き先を失っていた話が、ちゃんと結論までつながっていた。


「人とつながるきっかけにはなると思います」


そう言って、白銀が用紙に書く。


『SNSは人間関係を広げる』


「広げる側なんですね。理由は?」


「猫ですね」


「……猫?」


「SNSがなければ、見られない猫がいます」


「それは、人間関係ではないですよね」


「でも、猫との出会いです」


「会ってはいませんよね」


「会わなくても好きになることはあります」


「猫ですよね?」


「猫です」


確認したところで、話は戻ってこない。冗談で言っているようには見えなかった。

だから余計に、どこから直せばいいのか分からない。


「画面越しに見ているだけなら、遠くから眺めているのとあまり変わらない気がします。それでも、広がったことになりますか」


白銀は書きかけの一文をそのままにして、資料を二人の間へ向けた。


「遠くても、知る前よりは近いと思います」


「見ただけですよ?」


「はい。少なくとも、もう知らなかった頃には戻れないので」


少し考えた。


猫の話なのか、課題の話なのか分からなくなってきた。


「それは、人間関係なんですか」


「分かりません。だから課題なんだと思います」


正論、なのだろうか。

……でも、やっぱり猫と人間関係は別な気がする。


「でも、画面越しだと触れ合えませんよね」


白銀がこちらを見る。


「それはそうです。会わないと、毛はつきません」


「……そうですね」


彼女は『広げる』の下へ、もう一本線を引いた。


結論は変えないらしい。


---


「発表する人を決めてください」


教授の声がした。

僕と白銀は顔を見合わせる。


「……」


「……」


黙っていても発表者は決まらない。

僕から口を開いた。


「白銀さん、発表は得意そうですけど」


「苦手です」


少しくらい迷うかと思ったが、返事は早かった。


「でも、字も綺麗ですし」


「関係ありません」


「レディーファーストって言いません?」


「使い方を間違っていると思います」


「白銀さんは、人前でも平気そうに見えますけど」


「平気ではありません」


一つずつ逃げ道を塞がれている気分だった。


白銀はペンを机へ置き、両手を膝の上へ下ろした。


「何人もの視線が一度に向くのは、慣れていません」


きちんと揃えた指先に目が行く。


さっきまであんなに落ち着いて話していたのに。

二人で話すのと教室の前に立つのは別だ。僕だってそうだ。

そう考えて、言い返すのをやめた。

けれど、どちらかがやるしかなかった。


「では、どうしますか」


できれば、じゃんけんで決めようと言ってほしかった。


「朝倉さんで」


そうはならなかった。僕は小さく息を吐く。


「分かりました。僕がやります」


「本当ですか」


白銀の声が少し明るくなったように聞こえた。輪郭は見えないので、もちろん気のせいかもしれない。

彼女は膝の上で揃えていた指をほどき、続けた。


「大丈夫です」


「何が大丈夫なんですか」


「死にはしません」


励まされているはずなのに、あまり安心はできなかった。


順番を待つ間、発表用の紙を何度か読み返した。同じ文章なのに、立って読むことを考えただけで急に長く見える。


やがて僕たちの番になった。

資料を持って立ち上がると、前へ出るほど心臓の音が近くなった。


教室を見渡すと、こちらを見ている学生は半分ほどだった。残りはノートを見たり、机の上へ視線を落としたりしている。

手前の一人へ目を向ける。輪郭は薄く、椅子の影へ沈むように滲んでいた。

奥の学生も似たようなものだ。形は少しずつ違うけれど、どれも柔らかい。

そう考えると、呼吸が楽になった。


一人ずつ見るのをやめて、座っていた席へ視線を戻す。


白銀が、まっすぐこちらを見ていた。


彼女には輪郭がない。今、どんな気持ちで僕を見ているのか分からない。

ただ、目を逸らしていない。

それだけは分かった。


僕は資料の最初の行を読み上げた。


---


席へ戻る。歩いている間にようやく肩の力が抜けた。白銀は発表用の資料を受け取った。


「ちゃんと聞いていましたよ」


発表をこちらへ押しつけた本人にそう言われ、返事に迷った。


「……ありがとう」


結局、そんな当たり前の言葉しか出てこなかった。


「はい」


全員の発表が終わると、教授が課題用紙を前へ回すように言った。


「コメントがついたものは、次回修正して再提出してください」


白銀が課題用紙を前へ回し、残った資料を鞄へしまう。僕もノートを閉じて、ペンケースを片づけた。


「朝倉さん」


「はい」


「明日の対人コミュニケーション論でも、後ろの窓側に座りますか」


「え、白銀さんも、あの講義を取っているんですか?」


「はい。三つとも前から一緒です」


昨日の講義と、明日の講義。それに今受けているこの講義。


「僕、昨日まで白銀さんを見た覚えがなくて。今日も同じ講義だとは思いませんでした」


「そうですよね」


それにしても、三つか。


昨日まで気づかなかったのは、僕が周りを見ていなかったせいだとしても、輪郭が見えないことや、近づくと濃さが変わることまで、偶然とは思えなかった。


考え込んでしまった僕に、白銀は声をかけてきた。


「昨日、私が前からいたか聞きましたよね」


「はい」


「今日は、私が声をかける前に顔を上げましたよね」


確かにそうだった。輪郭が濃くなったから顔を上げた。けれど、それを話すわけにはいかない。


「たまたまだと思います。顔を上げたら、白銀さんがいたので」


「……そうですか」


白銀はそれ以上聞かなかった。


「それで、明日も後ろに座りますか」


「あ、はい。そのつもりです」


「隣に座ってもいいでしょうか」


「はい」


返事は、考えるより先に出ていた。


昨日なら、少し考えてから返事をしたと思う。


今日はスマホをなかなか返してもらえなくて、発表も押しつけられた。そして、近づかれると輪郭が濃くなる。


……こうして並べると、困ったことばかりだ。


それでも、また隣に座るのは嫌ではなかった。


白銀は窓際の席に置いた鞄を持ち上げ、こちらを向いた。


彼女が口を開くより先に、今度は僕から言った。


「では、また明日」


白銀は少し目を見開いた。何か言おうとしたのか、唇が動いたが、すぐには声が出なかった。


「……はい。また明日」


彼女は鞄を持って教室を出ていった。


前の席で、学生が立ち上がった。


何気なくそちらの方へ目をやる。


目を凝らしていないのに、その輪郭が見えた。

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