# 2話 動かないでください
翌日、別棟の「情報社会とコミュニケーション」の講義室へ入った。
昨日とは違う部屋なのに、長机の並びはよく似ている。後ろの窓側にある四人掛けも空いていたので、いつもどおり窓側から三番目に座る。
冷房の風が汗ばんだ首筋に当たる。ちょうどいいと思ったのは最初だけで、しばらくすると寒くなってきた。椅子を少しずらす。今度は机との位置が微妙に合わない。まあ、これくらいならいいか。
昨日、あの人は「また明日」と言った。
帰ってから自分の時間割を見直したけれど、昨日受けた講義はやっぱり一週間後だった。曜日を間違えているとか、そういうわけではなかった。
大学のどこかで会うという意味だったのかもしれない。もっと単純に、別れ際の癖だったのかもしれない。
考えても分かることではないので、そこまでにした。
前方で笑っている学生へ目をやる。身体に重なる輪郭は、普段どおりぼやけていた。
取り出したノートへ視線を落とし、日付を書きかける。
そこで、妙なことに気づいた。
視線を外したはずの輪郭が、まだ視界の端に残っている。さっきより、少しだけ濃い。
顔を上げると、机の横に人が立っていた。
肩までの黒い髪。灰色の瞳。
昨日、僕があれだけ見つめてしまった人だった。
彼女の唇が開きかけたまま止まった。それから、何事もなかったように口を開く。
「おはようございます、朝倉さん」
名前を呼ばれ、挨拶より先に疑問が出た。
「僕の名前、知っていたんですか」
「はい。同じ講義の出席確認で、何度か呼ばれていたので」
「ああ、なるほど」
彼女は通路側に残っている空席へは向かわず、僕の長机の窓側を見た。
「ここ、いいでしょうか」
「あ、はい。どうぞ」
昨日は一番窓側に座っていた。
今日もそうするのだろうと思って、その動きをつい目で追う。
彼女は窓側の端へ鞄を置いた。
それから、僕のすぐ隣の椅子を引いた。
……あれ?
四席のうち、真ん中の二席が埋まった。肩と肩の間が急に狭くなった。
昨日、次もあの席に座るのかと聞いたせいだろうか。
あの質問を、近くに座ってほしいという意味に取られた?
でも、僕は本当に席のことを聞いただけだ。
だからといって、今さら「そういう意味ではなかったんです」は色々とおかしい。そもそも隣に座ること自体、別に悪いことではない。
そんなことを考えている間に、彼女はノートとペンケース、講義資料を取り出し、机の上で端を揃えた。昨日と同じ並べ方だった。
準備を終えた彼女がこちらを向く。灰色の瞳が僕の顔を見たあと、肩のあたりで止まった。
「朝倉さん、ペット、飼っていますか」
「……え?」
「動かないでください」
彼女が隣から身を寄せる。灰色の瞳が思ったより近くまで来て、反射的に顔を前へ戻した。
正面にいる学生たちの輪郭が浮かんだ。
前の席。斜め向こう。通路を歩く人。
輪郭はどれも普段より濃い。縁の細かな震えも、小さな尖りも、目を凝らさなくても入ってくる。
昨日ほどではない。それでも、意識を別の場所へ向けようとすると、そちらにも線がある。
昨日のようにこめかみが痛むかと身構えたが、何ともなかった。
彼女の指が、僕の肩から何かを摘まみ取った。
「毛がついていました」
彼女が身体を離す。
指先には、先が黒くて根元が白っぽい、長い毛が一本挟まっていた。
周囲の輪郭から、さっきまでの鮮明さが失われていく。
昨日は指先が触れた瞬間に変わったと思っていた。けれど今日は、彼女が机の横に立った時点で、もう輪郭が濃くなっていた。
触れたからではなく、近づいたから?
まだ二回目だ。決めつけるには早い。
彼女が指先の毛をじっと見ていた。
「それ、たぶんうちの猫のです」
「猫。写真はありますか」
「はい。ありますよ。猫、好きなんですか?」
「はい。かなり」
スマートフォンを取り出す。ナギの写真は探す必要がないほど入っていた。
床に長く伸びているナギの写真が目についたので、それを選んだ。
横の座布団より、伸びた身体の方がずっと長い。
「名前はナギです」
「ナギ」
彼女は確かめるように名前を口にした。それから画面へ身を乗り出す。
近い。
前方で頬杖をついている学生へ目を向ける。
輪郭はまた濃くなっていた。ただ、毛を取ってもらった時ほどではない。
近さだけで全部が決まるわけでもなさそうだ。
考えながら顔を戻すと、灰色の瞳がすぐ目の前にあった。
僕は反射的にスマートフォンを差し出した。
彼女は両手で受け取る。
……渡すつもりはなかった。
「大きいですね」
「大きいです。メインクーンとか、ああいう猫に近いと思います。毛まで含めると、ちょっとした犬くらいあって」
彼女は頷いたが、僕の方は見ていない。
画面の中の琥珀色の目は、迷惑そうにカメラを見ていた。
彼女は躊躇なくスマホの操作を始めた。
画面を拡大。毛並みが画面いっぱいになる。
黒に近い長い毛の隙間から、白っぽい灰色の根元が見えた。
「……黒いのに、中が明るいんですね」
「そうなんです。抜けた毛も、よく見ると二色で」
そこまで言って、黙った。
聞こえたのか、聞こえてないのか、彼女は画面に見入っていた。
親指をゆっくり動かし、ナギの顔を出しては毛並みに戻す。
小さく、何か聞こえた。
「……大きいもふもふ」
「え?」
指が止まる。
「今、大き――」
「言っていません」
「……聞こえましたけど」
「そうなんですか?」
……聞き間違いではなかったと思う。
どうしてそこまで否定するのかは分からないけれど。
講義開始のチャイムが鳴る。彼女はそこでようやく画面を消し、スマートフォンを返してきた。
「すみません。長く見てしまいました」
「いえ。大丈夫です」
受け取った時には、彼女はもう前を向いてノートを開いていた。
彼女の輪郭は相変わらず見えない。それでも、ナギへの反応はわかりやすかった。
---
講義の途中で、教授が資料を机へ置いた。
「では、ここからはグループワークに入ります。二人一組で、隣同士でも構いません」
あちこちで椅子が動き始めた。前の方では、振り返った学生同士がすぐ組を決めている。
横を見ると、彼女も僕を見ていた。
この距離で、ほかの人を探しに行くのも変な話だ。それでも一応、聞いておいた方がいい気がした。
「他に組む人、決まっていますか」
「いえ。まだです」
「じゃあ、その……よかったら、一緒にやりますか」
「はい。お願いします」
彼女は迷わず資料を二人の間へ寄せた。
「お願いします」
返事をしてから、少し肩の力が抜けた。僕の方だけが、ずいぶん構えていたらしい。
配られた用紙の上には、名前を書く欄が二つあった。
そういえば、まだ名前を知らない。向こうは僕の名前を知っているのに、僕は「昨日の人」としか呼べないままだった。
先に自分の名前を書いて、ペンを渡す。
朝倉朔也。
その隣へ、彼女が整った字を書いた。
白銀澪。
「朝倉さん」
「はい」
「朔也、と書いて、さくやと読むんですか」
「そうです。あさくらさくやです」
僕も右側の名前を指で示す。
「しろがね、で合っていますか」
「はい。しろがねみおです」
白銀。
昨日、光の加減で一瞬だけ銀色に見えた目を思い出した。左手首には銀色の腕輪もあった。偶然にしては、よく似合う名字だと思う。
名字が似合う、なんて変な言い方だ。名は体を表すというのとも、性質が違う気がした。
白銀はもう課題文を読んでいる。僕も用紙を二人の間へ戻した。
「課題を読みましょう」
「そうですね」
テーマは『SNSは人間関係を広げるか』
広げることもあるし、面倒になることもあるだろう。そう言ってしまえば終わりそうな話だ。でも、もちろんそれでは課題にならない。
「どうしますか」
「僕、こういう正解がないものは苦手なんです」
「そうですか? 私は逆です」
「逆?」
「正解がある方が苦手です」
それはおかしい。正解があるほうがいいはずだ。
「どうしてですか」
白銀は課題文へ目を戻した。
「間違えるので」
つい笑いが漏れた。
彼女の眉が寄る。
「すみません。冗談なのかと思って」
「本当のことです」
「そうですよね……」
昨日の消しゴムのことを思い出した。間違えた場所が残ると、あとでそこばかり見てしまうと言っていた。きっと今も真剣に答えてくれたのだろう。
笑ってしまったのは、少し悪かった。
白銀は資料に線を引き始めた。大事なところを短い言葉にして、ノートへ並べていく。見ていて気持ちがいいくらい迷いがない。
僕も何か書こうとして矢印を引いた。そこから何へつなげるか考えているうちに、矢印だけが残った。
こういうのは、頭の中で考えている間はなんとなく分かった気がする。紙へ書くと、急に怪しくなる。
「白銀さん、まとめるの、上手いですね」
「そうでしょうか」
「少なくとも、僕よりは」
白銀が二冊のノートを見比べる。
一秒、二秒。
「……ごめんなさい」
「なぜ謝るんですか」
「その……思ったより大変そうだったので」
「大変そう」
「はい」
白銀は僕のノートから目を逸らさなかった。
少しは否定してほしかった。
---
「残り十分です」
教授の声が響いた。
僕は時計へ目をやった。
「そろそろまとめますか」
「そうですね」
白銀は自分のノートをこちらへ向けた。いつの間にか僕が口にした意見も書き込まれている。僕のノートでは行き先を失っていた話が、ちゃんと結論までつながっていた。
「人とつながるきっかけにはなると思います」
そう言って、白銀が用紙に書く。
『SNSは人間関係を広げる』
「広げる側なんですね。理由は?」
「猫ですね」
「……猫?」
「SNSがなければ、見られない猫がいます」
「それは、人間関係ではないですよね」
「でも、猫との出会いです」
「会ってはいませんよね」
「会わなくても好きになることはあります」
「猫ですよね?」
「猫です」
確認したところで、話は戻ってこない。冗談で言っているようには見えなかった。
だから余計に、どこから直せばいいのか分からない。
「画面越しに見ているだけなら、遠くから眺めているのとあまり変わらない気がします。それでも、広がったことになりますか」
白銀は書きかけの一文をそのままにして、資料を二人の間へ向けた。
「遠くても、知る前よりは近いと思います」
「見ただけですよ?」
「はい。少なくとも、もう知らなかった頃には戻れないので」
少し考えた。
猫の話なのか、課題の話なのか分からなくなってきた。
「それは、人間関係なんですか」
「分かりません。だから課題なんだと思います」
正論、なのだろうか。
……でも、やっぱり猫と人間関係は別な気がする。
「でも、画面越しだと触れ合えませんよね」
白銀がこちらを見る。
「それはそうです。会わないと、毛はつきません」
「……そうですね」
彼女は『広げる』の下へ、もう一本線を引いた。
結論は変えないらしい。
---
「発表する人を決めてください」
教授の声がした。
僕と白銀は顔を見合わせる。
「……」
「……」
黙っていても発表者は決まらない。
僕から口を開いた。
「白銀さん、発表は得意そうですけど」
「苦手です」
少しくらい迷うかと思ったが、返事は早かった。
「でも、字も綺麗ですし」
「関係ありません」
「レディーファーストって言いません?」
「使い方を間違っていると思います」
「白銀さんは、人前でも平気そうに見えますけど」
「平気ではありません」
一つずつ逃げ道を塞がれている気分だった。
白銀はペンを机へ置き、両手を膝の上へ下ろした。
「何人もの視線が一度に向くのは、慣れていません」
きちんと揃えた指先に目が行く。
さっきまであんなに落ち着いて話していたのに。
二人で話すのと教室の前に立つのは別だ。僕だってそうだ。
そう考えて、言い返すのをやめた。
けれど、どちらかがやるしかなかった。
「では、どうしますか」
できれば、じゃんけんで決めようと言ってほしかった。
「朝倉さんで」
そうはならなかった。僕は小さく息を吐く。
「分かりました。僕がやります」
「本当ですか」
白銀の声が少し明るくなったように聞こえた。輪郭は見えないので、もちろん気のせいかもしれない。
彼女は膝の上で揃えていた指をほどき、続けた。
「大丈夫です」
「何が大丈夫なんですか」
「死にはしません」
励まされているはずなのに、あまり安心はできなかった。
順番を待つ間、発表用の紙を何度か読み返した。同じ文章なのに、立って読むことを考えただけで急に長く見える。
やがて僕たちの番になった。
資料を持って立ち上がると、前へ出るほど心臓の音が近くなった。
教室を見渡すと、こちらを見ている学生は半分ほどだった。残りはノートを見たり、机の上へ視線を落としたりしている。
手前の一人へ目を向ける。輪郭は薄く、椅子の影へ沈むように滲んでいた。
奥の学生も似たようなものだ。形は少しずつ違うけれど、どれも柔らかい。
そう考えると、呼吸が楽になった。
一人ずつ見るのをやめて、座っていた席へ視線を戻す。
白銀が、まっすぐこちらを見ていた。
彼女には輪郭がない。今、どんな気持ちで僕を見ているのか分からない。
ただ、目を逸らしていない。
それだけは分かった。
僕は資料の最初の行を読み上げた。
---
席へ戻る。歩いている間にようやく肩の力が抜けた。白銀は発表用の資料を受け取った。
「ちゃんと聞いていましたよ」
発表をこちらへ押しつけた本人にそう言われ、返事に迷った。
「……ありがとう」
結局、そんな当たり前の言葉しか出てこなかった。
「はい」
全員の発表が終わると、教授が課題用紙を前へ回すように言った。
「コメントがついたものは、次回修正して再提出してください」
白銀が課題用紙を前へ回し、残った資料を鞄へしまう。僕もノートを閉じて、ペンケースを片づけた。
「朝倉さん」
「はい」
「明日の対人コミュニケーション論でも、後ろの窓側に座りますか」
「え、白銀さんも、あの講義を取っているんですか?」
「はい。三つとも前から一緒です」
昨日の講義と、明日の講義。それに今受けているこの講義。
「僕、昨日まで白銀さんを見た覚えがなくて。今日も同じ講義だとは思いませんでした」
「そうですよね」
それにしても、三つか。
昨日まで気づかなかったのは、僕が周りを見ていなかったせいだとしても、輪郭が見えないことや、近づくと濃さが変わることまで、偶然とは思えなかった。
考え込んでしまった僕に、白銀は声をかけてきた。
「昨日、私が前からいたか聞きましたよね」
「はい」
「今日は、私が声をかける前に顔を上げましたよね」
確かにそうだった。輪郭が濃くなったから顔を上げた。けれど、それを話すわけにはいかない。
「たまたまだと思います。顔を上げたら、白銀さんがいたので」
「……そうですか」
白銀はそれ以上聞かなかった。
「それで、明日も後ろに座りますか」
「あ、はい。そのつもりです」
「隣に座ってもいいでしょうか」
「はい」
返事は、考えるより先に出ていた。
昨日なら、少し考えてから返事をしたと思う。
今日はスマホをなかなか返してもらえなくて、発表も押しつけられた。そして、近づかれると輪郭が濃くなる。
……こうして並べると、困ったことばかりだ。
それでも、また隣に座るのは嫌ではなかった。
白銀は窓際の席に置いた鞄を持ち上げ、こちらを向いた。
彼女が口を開くより先に、今度は僕から言った。
「では、また明日」
白銀は少し目を見開いた。何か言おうとしたのか、唇が動いたが、すぐには声が出なかった。
「……はい。また明日」
彼女は鞄を持って教室を出ていった。
前の席で、学生が立ち上がった。
何気なくそちらの方へ目をやる。
目を凝らしていないのに、その輪郭が見えた。




