重なり合う時:エリザベス/アレクサンダー
「……っ間に、合った……?」
陽を遮るように積み上がり、聳え立った土壁。
その向こう側で断続的に聞こえる、地を抉るような衝撃音。
咄嗟なことではあったものの、間一髪のところで直撃を避けることは出来たことに、安堵の息が漏れ出る。
しかし、所詮土壁は、土だ。
完全な防御には向いておらず、何時崩れても可笑しくはない代物。
そもそも相手は、あの男だと言うことを考えると、根比べにさえもならないだろう。
ここからどう打開が出来るか。
弟が到着するのを待つにしても、耐えきれる自信が正直無い。
(……もっと、私に力があれば)
考えれば考えるほど、自分だけではどうすることも出来ない、この状況である。
己の無力さが悔しく憎い。と、緩みかけていた唇を噛み締めるエリザベスの頬に触れたのは、しっとりと濡れた……馬の鼻先だった。
心配するようにぐりぐりと押し付けられる、それはきっと馬の優しさなのだろう。
馬の想いを受け止め、癒されていく心。一生懸命駆けてきたのだろう、乱れていたその毛並みを撫で、整えることで冷静さをも取り戻しかけたエリザベスだった、けれど。
「……君。」
不意に頭上から―――否、少し斜め上のあたりから聞こえたその声に青年の存在を思い出し、再び早鐘を打ち始める鼓動。動揺に肩が揺れてしまうのを抑えきれず、過剰な反応をしてしまった。と。次に込み上げたのは少しばかりの申し訳なさ。
恐る恐る視線を、声の聞こえた方へと向ければ、彼はそこに居た。
いつの間に降り立っていたのだろうか、少しだけ身を屈めて、此方の様子を伺う銀色の青年。
その瞳にはやっぱり、あの日と同じ様な冷たいけれど温かな温もりが込められているような気がして。
(……安心する。のは、どうしてだろう?)
未だ、胸の高鳴りはドクドクと鎮まる気配を見せない。けれど、心の奥底からじんわりと満たされていく温もりに居たそれは、父に抱き締められた時と同じよう……いや、それ以上の安心を齎してくれる。
―――ような、気がしたのだ。
〇
「……すまない。驚かせてしまったな。」
此方を見上げたまま、沈黙してしまった少女。その横では、主人の無事を確かめるように戯れていた馬が鋭い眼光で、アレクサンダーにふんっと荒々しい鼻息を数度放っている。その仕草はまるで、「まったく、この子を驚かすな」「怖がらせるな」と告げているようだと感じたのは、これまでのやり取りからして気のせいでは無いはずだ。
(声を掛けたのは、早計だったな……申し訳ないことをした。)
しかし、この状況下である。これ以上、離れることは出来なかった。故に、少しでも彼女の心が落ち着くならばと、馬の影に紛れようと背を向けようとした―――その時だった。
グイッと、掴まれたのは左手首。
手袋越しでも伝わる、微かな震え。
何よりも、火照りきったその温もりに。
思わず振り返ったアレクサンダーの目に飛び込んだのは、空の色。
薄い影の落とされた防壁の内側でもハッキリと分かるほど、はっきりとした意思に揺らめくその瞳は、今日の空よりも澄み渡っていた。
そこに怯えや恐怖といった不安の感情は一つと浮かんでおらず、あるのはただ。
ただ、あの夜と同じ―――。
「―――いかないで。」
覚悟の決まった者のみが抱く鋭さが、そこには宿っていた。
〇
思わず口から零れ落ちてしまった言葉。
引き留めるようなセリフを言うつもりで、彼の袖を掴んだわけではなかったのに。
気まずさが込み上げ、眉根を寄せて怪訝そうな表情になる青年から思わず視線を逸らしてしまった、されど、沈黙に逃げ場を探している場合では無いのだと思い直して、袂で握り締めていた拳にまた一度、力を込める。
(そうよ、エリザベス……こんなことで動揺なんて、している暇はないのよ)
行かないで、と言ってしまったのは、きっとまだ助けてくれたことへのお礼を伝えれていなかったから。
それと、折角の安全地帯から出ていくように見えたから、危ないと思って……そう、だから引き留めたの。
(……それ以外に、他意は、無い。そう、無いの。)
言い聞かせるように深呼吸を繰り返して、いまだ騒めいている鼓動を無理やり落ち着かせたエリザベスは、最後にもう一度だけ。聞こえないように息を深く吐き出して、ようやく青年へと再び視線を向けるのであった。
〇
「……あ、あの」
緊張の滲む震えた少女の声が、狭い空間に響く。
数度、挟まれた深呼吸。その息遣いが落ち着くのを、跪いて待つ青年の目線はずっと彼女を捉えていた。
「……その、まずは……あの、助けてくれて、ありがとう……ございました」
小さく揺れた、柔らかなオレンジの髪。緩やかに瞬き、見え隠れするスカイブルーの瞳。
それから。と、堰を切ったかのように少女は、「いかないで」と言った真意についてを語り出した、のだけれど―――。
あの夜とは違い、くるくると移り変わる少女の表情をただ見つめていた彼には残念ながら、その殆どが届いていなかったことを彼女はまだ知らない。
〇
そっと握られていた己の手首から離れていく、少女の指先。
僅かに残された温もりも、やがて消えてしまうもの。
それが少しだけ、名残惜しかった。
(……こんな時に、何を考えているんだ。俺は。)
小さく頭を振って、芽吹きかけていたあの夜と同じ未知の感情を打ち消そうとするアレクサンダーへ。
ようやく少女の声が届いたのは、それから2秒ほど後のことだった。




