あまりもの/リューンハルト・キールエラ
ほしかったのは、ひとつだけ。ひとことだけ。
あなたから、「 」といってほしかったんだ。
一番、古い記憶はあの日。
父と母の間に誕生した、小さな命が産声を上げたあの瞬間。
いつも博識で頼りになる優しい父は、下がり切った眦に涙を浮かべて、愛おしそうにその子を抱き上げていた。そして、母の指先に何度も唇を寄せては、囁いていたのだ。『ありがとう、ありがとう』って。
対する、いつも明るく大らかで……やっぱり優しい母も。その顏に疲れを滲ませていたけれど、産まれたばかりの我が子よりも大泣きする父の姿に呆れたような微笑みを浮かべながら―――その子を見つめて、涙を流していたのだ。
その光景は、最近読んだ絵本に描かれていた理想の家族そのもので。
使用人に誘われて覗き込んだ扉の隙間から様子を伺っていた幼い頃のリューンハルトは、思ったのだ。
自分が産まれた時も、こうだったのかな?と。
そうだったら良いな、と。
純粋な気持ちで抱いたはずの期待が、醜い疑念へと濁り始めたのはその3年後のこと。
もう一人が両親の間に誕生した時からであることを、よく覚えている。
その前から、違和感はあったのだ。
『リュウもおいで』
『あなたの妹よ、可愛いでしょ?』
あの後、見ていることに気付いた父が手招いてくれて、乗り上げたベッドの上で母が見せてくれた、産まれたばかりのぼくの妹。
母と同じ、お日様の温もりを一杯浴びたような小麦の色をした髪。
むずがるようにギュッと閉じていた瞼が、ぱっと花開くように和らいで煌めいたのは、父と同じ空色の瞳だった。
確かに、可愛い。可愛い、ぼくの妹だという、その子。
芽生えた愛おしさの裏に滲んだ、もやもやとした感情が『羨ましい』であることを知ったのは。
『リュウ、どうしたの?』
『ほら、お前の弟だよ。私たちとよく似ている。』
父と同じ、チョコレートのように深い茶色の髪。母と同じ、可憐な菫色の瞳。
利発そうな顔立ちは、父とよく似ていた。
(ねぇ、父様、気付いてますか。ぼくの髪は、あなたより明るいんです。)
(ねぇ、母様。知っていますか。ぼくの瞳の色があなたにも父様にも似ていないことを)
ねぇ、ねぇ、ねぇ……父様、母様……
『どうして、オレは同じじゃないの?』
五人となった家族の筈なのに。
纏う色が、お前は違うと締め出そうとしてくる。
そんな、疎外感を一度抱いてしまえば、もう駄目だったのだ。
別に、愛されていないと思ったことはない。
両親は、妹や弟と変わらないくらいの愛情を注いでくれたと思う。
(誕生日には、オレの好きなブルーベリーのタルトを焼いてくれたし)
それとは別で、ブルーベリーが苦手なエリザベスの為に、シュークリームも用意していたけれど。
(プレゼントは何時だって、オレが欲しいと言ったモノを用意してくれた)
あくる年には、憧れていた魔法使いのサインが入った本を手に入れてくれたこともあった。
(あぁ……あの年だったけ。エリザベスの為にって父さんが作り始めていたガーデンアーチが完成したのは。)
エリザベスの名前の由来にもなった、エリザベス・ローズを態々取り寄せてまでこだわり抜いていたっけ。
そして、その横にはレノンバルトが産まれたときに作られたブランコの紐が長すぎてさ。いつも、風に揺さぶられては、絡まってしまって……―――それを見た2人が、遊べないとあまりにも悲しそうな顔をするものだから……仕方ないなって解いてやってことが何度もあったけ。
ありがとうって抱き着いてきた二人分の温もりは……嫌いじゃなかったのに。
(……そうだ。オレのも……あれ……?)
オレのは……どこに、あったんだっけ……
何時だったか聞いたはずなのに、思い出せれない。
あんなに、嬉しそうに父が説明してくれたのに。
――そう言えば……最後に父の笑顔を見たのは、何時だったけ?
土砂降りの雨が降る。
数日前、あの子を突き放した時と、同じような雨だった。
でも、地べたに崩れ落ちているのは、あの子ではない。
泥に滲んだ手元が、霞んで映る。
飛び出してしまうのでは無いかと思うほど、軋んだ痛みを訴える心臓。
少し離れたところで、喚いているのは――――鮮やかすぎるピンク。
あの可憐なエリザベス・ローズとは、程遠い醜さの象徴。
「……本当に、兄様はどうしようもないね。」
ぐちゃり。
態と土を踏み鳴らしながら、歩み寄る気配。
そして、落とされた冷ややかな声音は、久しく耳にしていなかった彼のものだった。
のろのろと重たく顔を上げた、リューンハルトを見下ろした、その瞳は何処までも凍てついた色をしていて。
―――でも、弟の怒りに満ちたそれよりも。
そこに滲む二人の面影が、どうしようもなく、どうしようもないほどに、ぐちゃぐちゃになった愚か者の心を深く抉ったのだった。




