a4:朧月に浮ぶ心
―――、不意に空気が変わったような気がした。
ぎしり、と湿り気を帯びた床板の軋む音が鼓膜を打つ。
つられて顔を上げれば、丁度少女が立ち上がった所だった。
まだ全身が痛いはずだろうに。
微塵も感じさせない振る舞いで、ふらつくことなく此方を向き直った少女の、その姿に彼女の不屈の精神が伺えたような気がした。
(……逆に言うならば、そうならざるを得なかった。とも考えられるが)
思わず、少女の“これまでの経緯”に思いを馳せかけるが―――緩く頭を振って、思考を打ち消す。
(深く踏み込んではいけない。―――どうせ俺には最後まで面倒を見ることはできないのだから。)
いつの間にか、目を逸らすのも忘れていたアレクサンダーの視界に、オレンジが舞った。
一瞬、焚火が爆ぜたのかと確かめようとし―――違うことに気付く。
それは、少女のものだった。
微かに小屋の中へ吹き込んでいた風が、解けた少女の長い髪を緩やかに靡かせていたのである。
そして、豊かな恵みを思わせる彼女のオレンジ色は、霞んだ月明かりに照らされて淡い輝きを放っていた。
(……綺麗だな)
ストンと落ちてきた、自分にしては珍しく素直な感想。
でも、何故か目をはなすことが出来なかった。
アレクサンダーが自身の異変に気が付いた時にはもう、それまで抱いていたはずの思考は遠くの方へ追いやられ―――代わりに脳内を浸食していたのは、経験に無い感情の渦。
焦燥感にも似ているが、違う。
高揚感とも近しいが、違う。
それは、動揺と苦悩も少しだけ交じり合ったような、不可思議な感覚だった。
不快感は無いけれど、得体のしれないその感情に思わず眉根が自然と寄るのを感じた。
が、それも至近距離にまで近付いてくる少女の気配を察知したことで、一度霧散される。
「……どうした」
顔を上げたままであったアレクサンダーの瞳を覗き込むように屈んだ、少女。
当然、視線はかちりとあってしまう。
今度は早鐘を打ち始めた心臓に、風邪でも引いてしまったのかと内心焦りを見せ始めるアレクサンダー。
咄嗟に横へ視線を逸らそうとしたが、少女の纏っている外套の隙間から白い肌が覗いているのに気付いてしまい、失敗に終わった。
行き場が無いのならば、と。目を瞑ることで誤魔化そうと思いついた、アレクサンダーの考えを遮るように。
少女の指先が、アレクサンダーの組んでいた腕に触れたのだった。
途端に跳ね上がる鼓動。
一体全体、自分はどうしたんだ。
と、瞑ることも出来なくなった視界の端に少女の手を捉えながら嘆く。
そんなアレクサンダーの心情など知る由もない少女の問いかけが、耳の奥でこだました。
「ねぇ」
「………なんだ」
「ドレス脱がしてくれたのもあなた?」
「……………そのままにしていたら、風を引くだろう」
肯定の代わりに述べたのは、余りにも言い訳がましい台詞だとは自覚している。だが、事実でもあった。
泥水を吸い込んで、重く冷たくなったドレス……だったものは、もはや服の意味を為しておらず。このまま着ていても、体調の悪化を招くと判断して、脱がしたことは間違っていないと思っている。勝手に荷物を漁ってはしまった上、鞄の中にあった替えの服も、確かに自分が着せた。
(……だが、つまり、あれは……救命……措置……の一貫なんだ)
それに極力肌を見ないよう、火を灯す前に終わらせる配慮もしてる。
明らかに薄着であることは分かったから、風邪を引かないよう、自分の外套も掛けた。
そう彼女にも説明すれば、理解してくれる筈だろうに。
いざ口を開こうとすれば、どれも言い訳がましく聞こえて、音にも鳴らず、ただ飲み込むことしか出来なかった。
「………あなたは、私を助けてくれる。その認識であってる?」




