第7話:勝利の女神は、放課後の教室でうたた寝する
「……九十九、百。……はい、終わり。航太、採点して」
放課後の誰もいない教室。
みゆきは自作の英単語暗記カードを机に置き、燃え尽きたように椅子の背もたれに体を預けた。
球技大会の後、彼女は「クラスメイトとの協調ロジック」を構築すると宣言したが、結局そのストレスを埋めるように、以前にも増して猛烈な勉強勝負を俺に挑んできていた。
「……全問正解。お前の勝ちだよ、みゆき」
「当然……よ。私の脳内メモリに、敗北の二文字を刻む余地なんて、一ビットも残っていないわ」
そう強気な口調で返してはくるものの、その声はいつになく弱々しい。
見れば、彼女の目の下にはうっすらとクマができている。昨夜も遅くまで、自分の論理を磨き直していたのだろう。
「おい、根を詰めすぎだって。少し休めよ」
「休む? 休息は、勝利への執着が薄れた者が選ぶ甘えよ。私は、眠っている間にもライバルがページを捲る音が聞こえるの……」
そう言いながら、彼女の瞼は重そうにゆっくりと閉じていく。
「聞こえるのよ……ページを……捲る、音が……」
数分後、聞こえてきたのは規則正しい、小さな寝息だった。
「……寝るなよ、こんなところで」
俺は苦笑しながら、単語帳を鞄に仕舞った。
夕暮れのオレンジ色の光が、窓から差し込み、みゆきの横顔を照らしている。
起きている時はあんなに理屈っぽくて、トゲトゲしくて、勝利のことしか考えていないのに、眠っている姿はどこにでもいる普通の、少し綺麗な女子高生だ。
彼女の机の上に投げ出された右手を見る。
人差し指の付け根にある小さなタコ。
「天才」と呼ばれ続けるライバルに追いつくために、彼女がどれだけの時間をこの無機質な教室で過ごしてきたか、その証拠がそこにあった。
「……お疲れ様、みゆき」
俺は自分の上着を脱ぎ、彼女の細い肩にそっと掛けた。
その時、みゆきが「う、ん……」と小さく身悶えし、寝言を漏らした。
「……航太……。次は、私が、勝つから……」
夢の中でも俺と勝負しているのかよ。
俺は溜息をつきながら、彼女の隣の席に座り、夕日が沈むのを眺めていた。
静かだった。
彼女が起きている時は、勝敗だのロジックだの、いつも騒がしい。
けれど、この静寂もまた、彼女が積み上げた「勝利へのプロセス」の一部なのだと思うと、悪くない気がした。
三十分ほど経っただろうか。
みゆきの体がビクッと跳ね、彼女は勢いよく顔を上げた。
「……っ!? 航太! 今、私は何分間、意識を消失していた!?」
「三十分くらいかな」
「三十分!? なんてこと……私の人生の貴重な千八百秒が、無益な睡眠によって奪われたというの!?」
慌てて立ち上がろうとした彼女は、肩に掛かっていた俺の上着に気づき、動きを止めた。
上着の袖を掴み、くんくんと鼻を動かす。
「……これ、あなたの?」
「ああ。風邪引かれたら、俺の勝率が上がっちゃうだろ?」
俺が軽口を叩くと、みゆきは上着に顔を半分埋めるようにして、耳まで真っ赤に染めた。
「……ふん。不純だわ。敵に塩を送るなんて、あなたのロジックは破綻している。……でも、この上着の保温効果は、今の私のコンディション回復に、極めて有効に作用したわ。……感謝、してあげなくもないわよ」
彼女は俺に上着を突き返すと、慌ただしく鞄に教材を詰め込んだ。
そして教室を出る間際、振り返らずにこう言った。
「……明日。明日の朝の登校レースは、二秒差をつけて私の勝ちよ。覚悟しなさい!」
足早に去っていく彼女の足取りは、先ほどまでの疲れが嘘のように軽やかだった。
俺は残された静かな教室で、自分の上着に残った、彼女の微かなシャンプーの香りに気づかない振りをすることにした。
「……勝てないなあ、やっぱり」
夕闇が迫る教室で、俺は独り言をこぼした。
【今回の勝敗:引き分け(みゆき、三十分の遅れを夜なべで取り返すロジックを構築中)】
次は、第8話「期末試験の勝利、裏側に隠された孤独な努力」




