第008話:泥濘の檻と、大地のコンパクション【逆用】
――グシャ、ビチャリ、と泥濘を蹂躙する悍ましい肉と鉄の音が山岳に響き渡る。
それは、戦闘と呼ぶにはあまりにも無残で、一方的な「破滅」だった。
伝統ある騎士の格式と「根性」を叫び、冷たい春雨の中で突撃を敢行したロベルト子爵の部隊は、わずか数分で泥の中の無残な残骸へと成り下がっていた。
水を吸ってデッドウェイトと化した重いウール外套は、兵士たちの自由を完全に奪っていた。寒さで強張った筋肉は命令に従わず、滑る革底の靴は泥濘の斜面を捉えきれない。
彼らが転倒し、身動きが取れなくなったところへ、オルテンシア王国の精鋭軽騎兵――「山岳の猟犬」の鉄蹄が容赦なく降り注いだ。
「ギャアアアッ! 足が、泥から抜けんっ!」
泥まみれになりながら、這いつくばって逃げようとする小作人たちを、軽騎兵の乗馬が冷酷に踏みつけていく。
当のロベルト子爵はといえば、突撃の最中に馬が粘土質の泥に足を滑らせ、あえなく落馬。自慢の全身甲冑の三十キロを超える重量が仇となり、首の骨をグシャリと折って泥水の中に顔を沈めていた。
(……KYT(危険予知トレーニング)の完全な欠如。滑りやすい不整地において、自重の慣性を計算せずに疾走すれば、転倒時の衝撃モーメントは首の一点に集中する。典型的な「墜落・激突による自滅(セルフ重大労災)」だな)
給養馬車の窓から、ルディはその末路を極めて冷徹な「事故調査報告」として処理していた。
ロベルト隊、壊滅状態。
その凄惨な惨劇のすぐ傍ら、川べりの低湿地帯において、テレーゼ・フォン・ベルンハルトは、一人の少年の胸の中に抱かれていた。
「……ぃ、息が……っ」
テレーゼは、丸眼鏡の奥の瞳を大きく見開いたまま、激しく喘いでいた。
ロベルトに蹴り落とされ、冷たい泥水に濡れそぼった薄いリネンのシャツは、彼女の華奢な身体にぴったりと張り付き、寒さと恐怖でその豊かな胸の膨らみを冷たく冷やしきっていた。
死と陵辱を覚悟し、すべてを諦めて目を閉じた彼女を救い上げたのは、信じられないほど「温かく、圧倒的な安全」に満ちたルディの腕だった。
ルディの撥水防刃ハイブリッドダウンベストから伝わってくる、驚異的な熱量。
凍える中世の戦場において、これほどまでに人間を「生」へと繋ぎ止める温もりが存在するのだろうか。
テレーゼの知的な脳髄は、極限の恐怖から一転して与えられた「極上のセーフティネット(心理的安全性)」の快感に、ドロドロとした甘い痺れを覚え始めていた。
「しっかり掴まっていろ、テレーゼ。お前のいたブラックな現場は崩壊した。これからは俺が、お前の主君であり、安全管理者だ」
「あ……ル、ルディ、様……っ」
ルディは不敵に微笑みながら、テレーゼの細い腰をぐっと引き寄せ、その冷え切った身体を自分の温かい胸板へと強く押し付けさせた。
そして、空いた右手を、川べりの底なしの泥濘へと深く突き立てる。
「さて、DQNどもを片付けた猟犬どもが、こっちに色気を出してきたな」
ルディの【ガス・温度検知】が、ロベルト隊を蹂躙し終え、バウムガルト隊を「逃げ遅れた雑魚」と見なしてこちらへ馬首を向けたオルテンシア軽騎兵の動きを、正確な熱信号として捉えていた。
「逃がすな! あの少年の馬車と、生き残りの小作人どもを蹂躙せよ! 女は生かして捕らえ、尋問してやる!」
オルテンシアの軽騎兵隊長が、血濡れた湾刀をバウムガルト隊に向けて掲げ、咆哮する。
その中には、ひときわ小柄で身軽な馬を操る、オルテンシア王国の山岳猟兵の少女、セシル(十六歳)の姿もあった。
セシルは短い緑の外套を風になびかせ、馬上軽弩をルディへと向けながら、鋭い眼光を放っている。
「無駄だよ、弱小領主! その泥濘に踏み込んだ時点で、あんたたちの負けだ!」
セシルの叫びと共に、百騎の精鋭軽騎兵が、なだらかな傾斜を駆け下り、ルディたちのいる「底なしの湿地帯」へと一斉になだれ込んできた。
彼らの乗る山岳馬は泥に強い。だが、それはあくまで「通常の泥濘」においての話だ。
前世で化学メーカーの安全衛生管理者だったルディの脳内スプレッドシートが、大地の分子構造を極限まで解析し、完璧な「労働災害:スタック・挟まれ災害」の設計図を完成させる。
(ハザード評価:敵の突撃エネルギー「極大」。
土木工学における「土壌安定化」とは、土粒子間の空隙を減らし、水分を排除して土の支持力を高める技術だ。……ならば、その魔法プロセスを【逆用】して、土中の水分比率を意図的に狂わせたらどうなる?)
ルディは、泥の中に突き立てた右指から、自身の全魔力を大地の深層へと送り込んだ。
「――土壌結合強度の強制解放。水分比率を限界飽和(飽和度一二〇%)まで引き上げ、土のせん断強度をゼロに低下させろ。大地の『液状化現象』、操業開始だ!!」
キィィィィィィィィン――!
ルディの指先から、粘土質の土壌分子を結合させていた魔導圧力を「崩壊」させる波動が、波紋のように泥の中を奔り抜けた。
その瞬間、世界の物理法則がねじ曲がった。
バウムガルト隊の兵士たちが特製の「二重革靴」で踏みしめているルートだけは、ルディの魔法によって分子レベルで水分が搾り出され、一時的に「カチカチの乾燥舗装道路」へと硬質化していく。
兵たちは、「安全第一、ヨシ!」の合唱と共に、カチカチに固まった大地を最高のグリップ力で蹴り飛ばし、一糸乱れぬ敏捷性でスムーズに退却していく。
一方、それを猛追していたオルテンシア軽騎兵たちの足元は――。
「――なっ!? 馬の足が、融け――!?」
セシルが驚愕の悲鳴を上げた瞬間。
オルテンシア騎兵たちが踏み込んだ大地は、一瞬にして、大粒の砂と冷たい水が激しく攪拌された「底なしの泥の海」へと完全変質していた。
ズブブブブブブッ!!!
先陣を切って、時速四十キロ近い猛スピードで突撃してきた数十頭の軍馬の蹄が、足首どころか、膝の関節まで一瞬にして泥濘の底へと沈み込む。
疾走する運動エネルギーは、泥の激しい粘性抵抗によって一瞬で強制停止させられた。
しかし、その上に乗る人間の身体には、強烈な「慣性の法則」がそのまま作用する。
「ぐわああああああああっ!?」
ドババババババババババアアアン!!!と、泥水を数十メートルも噴き上げながら、オルテンシアの精鋭騎兵たちが、まるで投石機から放たれた石礫のように、前方へと一斉に投げ出された。
それは戦闘などではない。
制御を失った自重と慣性がもたらす、凄惨極まりない【突発的墜落・激突・挟まれ多重労災】の具現化だった。
泥の中に投げ出された兵士たちの上に、数百キロの重量を持つ軍馬が次々と回転しながら墜落していく。グシャ、ベキ、と、泥の奥底で肉と骨が圧潰する不吉な音が連鎖し、泥の檻にハメられた騎兵たちは、馬の巨体に挟まれ、巻き込まれ、冷たい泥水を吸い込みながら次々とスタック(無力化)していった。
「う、嘘……っ、何これ!? 泥が……泥が、生き物みたいに絡みついて……っ!」
山岳猟兵の少女セシルもまた、その「泥の檻」から逃れることはできなかった。
愛馬が液状化した大地に脚を取られて前方転倒し、セシルの華奢な身体は、冷たい泥濘の真ん中へと無残に叩きつけられた。
「あぅっ……! つ、冷たい……、身体が、動かない……っ!」
彼女を襲ったのは、これまでの軽い泥道とは全く異なる、底冷えする大地の圧倒的な重量だった。
ルディの魔法によって分子構造を液状化された粘土は、まるで冷徹な悪魔の接着剤のように彼女の衣服に絡みつき、細い手足をがんじがらめに締め付けていく。
水を吸って鉛のように重くなった緑の外套と、革の乗馬ズボン。もがけばもがくほど、泥は真空の陰圧(おそるべき摩擦抵抗)を発生させ、彼女のしなやかな腰のラインを執拗に泥水の下へと引きずり込んでいく。
「いやぁぁっ……! 抜けない……っ、お腹が、足が吸い込まれちゃう……っ!」
山岳を風のように俊敏に駆け回るはずの猟兵が、大地の重圧に組み伏せられ、抵抗の余地なく這いつくばり、泥の牢獄で冷たく凍えている。
その自由を奪われた絶望感に、セシルは恐怖の涙を浮かべて激しく震えていた。
そんな惨めな姿を、カチカチの舗装道路の上に立つルディは、極めてサディスティックで冷酷な「管理者」の瞳で見下ろしていた。
(ハッ、生意気で身軽な猟兵が、泥に這いつくばって惨めに震えていやがる。……いいザマだな。だが、あいつのような有能な野外スカウトを他国に使い潰させるのは安全管理上、実にもったいない。これより俺の天幕へ引きずり込み、一切の反抗を許さぬまま、電流マッサージで自律神経を強制的に整えて、俺の忠実な「専属探知機」にコンプライアンス(服従マインド)を書き換えてやるとしよう)
ルディの脳内「新入社員リスト」に、セシルが確実に登録された瞬間だった。
「――作業安全確認。敵前衛部隊の機動力喪失、および多重労災による無力化を完了。……ヨシ」
ルディは、腕の中に抱いていたテレーゼをゆっくりと地面に下ろすと、迎えに来たミリーの給養馬車のタラップへと彼女を誘導した。
テレーゼをミリーに引き渡すその瞬間。
ルディはテレーゼの耳元に、彼女の丸眼鏡が曇るほど密着し、低く、支配的で熱い吐息と共に囁きを落とし込んだ。
「今はミリーの馬車で大人しく休んでいろ。……だが、今夜は覚悟しておけよ。泥水に濡れて、冷たく冷え切ってしまったお前のその身体の過緊張を――俺の温かい天幕で、俺の指先の【微弱放電】を這わせて、芯の芯までたっぷり解きほぐして、俺のホワイトな管理下(支配)をわからせてやるからな」
「っ、ひゃぁっ……!?」
耳朶をくすぐるあまりにも官能的で、逃れられない甘美なお仕置き(メンタルケア)の確約。
テレーゼは、濡れて張り付いたシャツの胸元をキュッと抱きしめ、お腹の奥がズクンと痺れるような甘い疼きに襲われ、顔を真っ赤に紅潮させて深く吐息を漏らした。ルディに対する一生モノの依存の楔は、この瞬間、彼女の精神に決定的に打ち込まれた。
「ミリー、サシャ。あの泥の中に這いつくばっている山岳猟兵の身柄を、傷をつけないよう極めて安全なプロセスで回収、隔離・保護しておけ」
「はい、若君。うふふ、今夜の『新人研修』がとっても楽しみですね……!」
「それとテレーゼの羊皮紙の台帳も、泥の中から拾い上げておけ。将来の攻撃資料だ。頼んだぞ」
ミリーは妖艶に微笑むと、ガタガタと震えるテレーゼの背中を支えて馬車の中へと迎え入れた。
外の豪雨が嘘のように遮断された給養馬車の内部。
サシャが温め、レモンの香りを漂わせた経口補水液(ORS)のコップを、怯えるテレーゼに手渡した。
「ほら、これをゆっくり飲んで。体の中から温まるわよ」
「あ……ありがとう、ございます……っ。何、これ……すごく甘くて、塩気があって……すうっと染み込んでいく……」
温かい液体の魔力に、テレーゼの凍えていた胃の腑がゆっくりと解きほぐされていく。
だが、彼女の心臓は別の理由でバクバクと跳ね上がっていた。
先ほどルディに囁かれた、夜の「放電」という言葉。その意味が分からず、濡れそぼった身体を小さく縮こまらせるテレーゼに対し、ミリーが濡れたリネンのシャツの上から、冷え切った彼女の背中にそっと温かい手を滑らせた。
「ふふ、若君の視線、すごかったですよ? あなたのその冷え切った身体を、ずうっと見ていらっしゃいました。きっと今夜は、その丸眼鏡を外されて、見たこともないような蕩けたお顔で、心の底から癒やされることになりますね」
「な、夜伽を、強要されるのですか……!? 私は……あのような、ロベルトの下で受けたような汚らわしい仕打ちを……」
怯えるテレーゼ。しかし、ミリーとサシャは、呆気にとられたような優しいクススクスという笑い声を上げた。
「強要? いいえ、逆ですよ。あの方はね、世界で一番、私たちの健康とメンタルヘルスを大切に愛してくださるの」
ミリーはテレーゼの耳元に口元を寄せ、とろけたような熱い吐息を漏らす。
「若君の指先からね、ビリビリ……って、すっごく気持ちいい魔法の電気が流れるんです。あれで肩甲骨や腰のツボを深くほぐされると、自律神経が強制的にオフにされて、もう頭の中が真っ白になって、若君の「極上のマッサージ(アース)」なしでは夜も眠れない身体にされちゃうの。きっとあなたも今夜、もっとビリビリさせて、芯までとろとろに癒やしてって、自分からおねだりせずにはいられなくなりますよ?」
「あ、う……っ、自分で……おねだり……っ?」
テレーゼはミリーの蕩けきった表情と、予期せぬ「福利厚生(極上のセーフティ・ヒーリング)」の生々しい描写に、激しい恐怖と、それを上回る圧倒的な期待感に襲われた。
彼女の知的な脳髄が、ルディの絶対的な庇護下に入るという想像だけで、じわりと、自分でも信じられないほどの熱い疼きを覚え始めていた。
その頃、馬車の外では――。
ルディが老騎士ハンスを呼び寄せ、すかさず「現場管理」の命令を執行していた。
「ハンス! 泥濘にスタックした敵兵どもの武装を即座に剥ぎ、一箇所に隔離、整理整頓しろ。危険源(残存ハザード)を戦場に放置することは重大な不安全状態だ。反抗する危険源は、そのまま泥濘に押し込んで無効化しろ!」
泥濘で身動きの取れない敵兵は、放置すればいつ牙を剥くか分からない。戦後の速やかな「5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)」と現場の安全確保は、管理者の基本である。
「おおお……! なんと……なんという徹底された戦場管理……!」
ハンスは、老いた瞳をギラギラと狂信の光に燃え立たせて平伏した。
「敵の生殺与奪を冷徹にコントロールし、戦場のゴミを片付ける合理の極み……! 傲慢な騎士どもには絶対に思いつかぬ、これぞ神の領域の戦後処理(5S)プロセス! 若君、このハンス、直ちに現場の『整理整頓』を完遂して見せます! バウムガルト隊、5S、執行!!」
ハンスは、ダウンベストを着たピカピカの歩兵たちを率い、泥の中でもがく敵兵の武装解除へと電撃的に動き出した。
ハンスに後処理を託したルディは、ゆっくりと踵を返し、バウムガルト隊の後方陣地へと歩みを進めた。
彼の脳内の「工程予定表」には、管理者としての完璧な「緊急トリアージ」が敷かれていた。
(よし。現場の安全は確保された。だが、背後のバウムガルト陣営の奥――)
ルディの【ガス・温度検知】の視覚は、指定した待機場所において、異常な「超高熱の熱溜まり」が、ルディの網膜を真っ赤に焼き尽くさんばかりの勢いで膨張し始めているのを捉えていた。
(……あのじゃじゃ馬ボイラー(エルザ)、俺の「残魔力30%以下厳禁、クーリング重視」の操業マニュアルを無視して、独断で最大出力の魔力をチャージしやがろうとしているな!?)
このままエルザに無制限の詠唱(連続フル稼働)を許せば、彼女の体内魔力循環系はオーバーフローを起こし、体温異常上昇による心肺停止――すなわち「自壊(エンジンのボイラー爆発)」という最悪の労働安全災害(死亡事故)を引き起こす。
(チッ! どいつもこいつも、労務管理のなってねえ限界労働者ばかりだ……! だが、目の前の敵を泥にハメるのも、背後のじゃじゃ馬のオーバーヒートを安全に管理(強制アース)するのも、管理者の俺の義務だ!)
押し寄せる敵の残党。そして背後で爆発寸前のエルザの熱量。
二つの巨大な労働災害ハザードをロジカルに掌握したルディは、容赦なき「管理者としての愛(冷却)」を執行すべく、燃え上がる陽炎の奥へと歩みを進めたのだった。




