第007話:突然の遭遇戦と、即時安全退避
ゴオオオオウ! と、耳を圧する暴風が山肌を削り、泥濘の街道を霧が白く覆い尽くしていく。
視界は最悪、足元は底なしの粘土。
その最悪の作業環境(極悪ブラック現場)において、給養馬車の窓から外を監視していたルディの【ガス・温度検知】が、前方の霧の向こうから接近する「異常な熱源の集団」を捉えた。
「――来た」
ドドドドドドドドドドド――!
地響きが、暴風の音をかき消して山岳に響き渡る。
霧が風に引き裂かれた瞬間、現れたのは、深緑の軍衣をまとい、黒い軽量の革甲冑を身につけた騎兵の群れだった。その数、およそ百騎。
オルテンシア王国が誇る、国境警備用の精鋭軽騎兵――「山岳の猟犬」。
彼らの乗る馬は小柄だが強靭で、蹄には泥に滑らないよう特殊な滑り止め加工が施された蹄鉄が打たれている。彼らは泥濘を考慮した軽装でありながら、手にした湾刀と馬上軽弩をギラギラと光らせ、吸い込まれるような統率された動きで斜面を回り込んできていた。
「て、敵だああっ! オルテンシアの騎兵だっ!」
最前線を進んでいたロベルト子爵の先遣隊が、パニックを引き起こした。
彼らは低体温症と、不潔な生水を飲んだことによる赤痢に苛まれ、体力的にも精神的にも限界を迎えていた。そこへの突然のプロの騎兵強襲である。兵士たちの脆弱な安全意識は、一瞬にして恐怖のどん底へと叩き落とされた。
しかし、その混乱の渦中で、泥まみれの愛馬に跨るロベルト子爵だけは、ぎらついた狂気の瞳を輝かせた。
「おお……! 神は我を見捨ててはおられん! 辺境伯様の本隊に合流する前に、これほどの獲物が目の前に現れるとは!」
ロベルトは寒さで青ざめた顔を歪め、引きつった笑いを浮かべた。
「聞け、ロベルト隊の精鋭ども! 敵は軽装の騎兵に過ぎん! 騎士の誇りを示し、これを踏み潰して辺境伯様に我らの武名を示すのだ! 手柄を立てれば、小作人の一人や二人、死んだところで十倍の賠償金(税金)を村から巻き上げれば済む話だ! 突撃せよ!」
「ま、待ってください、ロベルト様……っ!」
馬の尻尾に繋がれたロープを必死に握りしめ、泥濘に足を取られながらテレーゼが叫んだ。
冷たい風雨に濡れて、薄いリネンのシャツが彼女の身体にぴったりと張り付き、寒さと恐怖で激しく震えている。
「この急斜面で、この泥です! 突撃すれば馬の足を殺し、隊列は崩壊します! それに我が隊の歩兵たちは、寒さと下痢で武器を握る指すら強張っているのです! 今、まともに突撃を行えば、衝突時の自重と慣性で自滅します! まずは一時後退して――」
「やかましい、知った風な口を利くな、帳簿女が!」
ロベルトは、邪魔そうにテレーゼの手を蹴り払った。
テレーゼの細い身体が泥濘の坂を転がり、彼女が大切に抱えていた羊皮紙の台帳が、冷たい泥水の中に散らばっていく。
「騎士の戦いに、泥だの体温だのという言い訳が通じるか! 退却など、武門の恥! 行軍に遅れたペナルティは、敵の首で支払うのだ! いざ、突撃ぃ!!」
ガシャガシャと、金属擦過音を響かせ、ロベルト子爵が先頭に立って滑りやすい粘土質の急斜面を駆け下り始めた。
それに引きずられるように、重いウール外套をまとった彼の歩兵たち(約百名)が、強張った脚で無謀に坂を下っていく。
――それは、現代の安全管理者の視点から見れば、「無資格の作業員を、荒天の中、命綱なしで高所作業の突撃に放り込む」のと完全に同義の、凄惨極まりない【不安全行動(重大労災確定演出)】だった。
(……うん、知ってた。完全なDQN企業の典型的な現場崩壊だな)
バウムガルト隊の給養馬車の窓から、ルディは極めて冷徹な目でロベルト隊の「自壊プロセス」を観察していた。
ルディの脳内スプレッドシートが、ミリ秒単位でロベルト隊の「被災予測カルテ」を書き換えていく。
(ハザード評価:危険レベル「極大(即死)」。
水を吸ってデッドウェイトと化したウール外套が自重を十キロ以上引き上げ、滑る革底の靴が斜面の摩擦係数をゼロにしている。あの状態で疾走すれば、運動エネルギーは制御不能になり、膝と足首の関節に許容荷重を超えるモーメントがかかる。……あ、ほら、滑った)
ルディの予測通り、突撃を開始したロベルト隊の先頭歩兵が、粘土質の泥に足を滑らせて無残に転倒した。
その兵士は、重いウール外套が泥の抵抗を引っ掛けたことで、時速三十キロ近い速度のまま、頭部から岩肌へと墜落(激突)した。グシャ、と不吉な音が響き、その背後を走っていた兵士たちも、先行する転倒体に次々と巻き込まれ、ボウリングのピンのように転倒(ドミノ災害・巻き込まれ事故)を連鎖させていく。
そこへ、山頂から完璧なアプローチで回り込んできたオルテンシア軽騎兵が、馬上弩を一斉に水平射撃した。
ビシシシシシシシシシシ――!
空気を切り裂く金属ボルトの雨が、転倒し、身動きの取れないロベルト隊のウール外套を容赦なく貫いていく。
ウール外套は水を吸って固くなっているため、一度矢が突き刺されば、繊維がボルトをガッチリと固定し、兵士たちの身体を地面に縫い付ける「拘束具」へと変わるのだ。
「ひ、ひぃぃっ! 助けてくれえっ!」
「外套が重くて起き上がれんっ……グハッ!」
オルテンシア軽騎兵のシャムシールが、すれ違いざまに兵士たちの首を正確に刈り取っていく。
それは戦闘ではなく、安全基準を著しく無視した現場で発生する「一方的な解雇(屠殺)」だった。
「……正面衝突なんて、大労災の元だ。あんなDQNどもの巻き添えを食らうなど、安全衛生管理者として末代までの恥だな。誰がやるか、バーカ」
ルディは、即座に「リスク回避(職場離脱)」の決定を下した。
窓から上半身を乗り出すと、彼は拡声器代わりに両手を口に当てて、後方のバウムガルト隊へ最大の号令を発した。
「全兵員(全作業員)に通達! 正面の敵との接触確率、および巻き込まれ災害の発生確率は現在『百パーセント』! これより、我がバウムガルト隊は『第一種即時安全退避』を開始する! 右手の川べりの低湿地帯(泥濘地)へ全力で迂回(職場離脱)せよ! 繰り返す、手柄なんか無能どもにくれてやれ! 命綱の紐を締め、逃走時の最大風速(全力走)を維持しろ! 退避、ヨシ!!」
「「「アイ・サァ(安全第一)、ヨシ!!!」」」
バウムガルト隊の五十名の歩兵、およびミリーたち炊事班は、一瞬の躊躇もなく右手の低湿地帯へ向けて「美しく退却」を開始した。
彼らの動きは、他領の兵士たちとは根本的に違っていた。
ウール外套を排除し、わずか八百グラムの撥水「防刃ハイブリッドダウンベスト」を着用しているため、肩回りの可動域は完全に自由で、風の抵抗も極限まで少ない。
さらに、彼らの足元を支えるのは、ルディが秋の増産の利益で全員に支給した、靴底に深い「スリップ防止溝」が刻まれた二重構造の歩行用革靴だ。この世界の兵士たちが、ツルツルの滑る一枚革のサンダルや靴で悪戦苦闘する中、バウムガルト隊の兵たちは、コンクリートを踏みしめるかのような確実なグリップ力で、泥濘を蹴り飛ばして疾走していた。
「おい、バウムガルトの兵どもが逃げるぞ!」
「あいつら、敵前逃亡か!? いや、しかし……速い! 泥の上なのに、なんであんなにピョンピョン走れるんだ!?」
崩壊していくロベルト隊の生存者たちが、驚愕の目で見送る中、バウムガルト隊は信じられないほどの敏捷性で、泥の低湿地帯へと滑り込んでいく。
その時。
馬車の車輪を泥から引き抜きながら走っていた老騎士ハンスが、ガタガタと全身を震わせ、強烈な「認知のバグ(狂信)」を爆発させた。
「お、おお……! なんと……なんという、大局的深謀遠慮……! 若君、ハンス、この老骨の曇った瞳が、ようやく我が君の『神の領域の戦術』を捉えましたぞ!」
「ハンス? いや、だから、俺はただ安全なルートを走って逃げているだけで――」
「違います! 若君は、ロベルト子爵という『不安全行動の権化』を最前線に突撃させ、敵の精鋭軽騎兵百騎の注意をあちらに引きつけさせた! そして敵が突撃の慣性(推進力)を最大にした瞬間、我らをあえて右手の『最悪の泥濘低地』へと誘い込まれた……!」
ハンスは、泥を跳ね上げながら盾を構え、熱狂的な咆哮を上げた。
「敵のオルテンシア軽騎兵は、逃げる我が隊を『手頃な獲物』と見て、必ずこの低湿地帯へと追撃してくるでしょう! しかし、彼らの馬は『泥濘を考慮した軽装』であっても、百頭の鉄蹄が踏み荒らせば、この低湿地帯は一瞬にして『底なしの泥の檻』と化す! 若君は……我が君は、ロベルト領の兵の命すら、敵を泥濘に沈めて無力化するための『撒き餌』として使い切るおつもりなのだ! なんと恐るべき、神算鬼謀……!!」
(いや、そこまで考えてねえよ!? ただ泥にハマって動きの鈍った敵をやり過ごして、俺たちだけがダウンベストの軽さで安全に逃げ切ろうとしてるだけなんだが!?)
ルディの心のツッコミは、隣に寄り添うミリーの妖艶な囁きによって、さらに甘美な管理者としての悦へと昇華された。
「うふふ、若君。ハンス様が言った通りですね。……あそこに、ロベルトから蹴り飛ばされて、泥濘に逃げ遅れた『あの眼鏡の女の子』がいます」
ミリーはルディの腕にふっくらとした胸を押し当て、熱い吐息を吹きかけながら、泥の中にぽつんと取り残されたテレーゼを指差した。
「ロベルト隊が壊滅すれば、あの令嬢はオルテンシア兵に乱暴されるか、このまま凍え死ぬでしょう。若君、敵が泥に足を取られて身動きができなくなった瞬間に、あの可哀想な眼鏡の令嬢だけを、我が隊の『完全な安全プロセス』で回収いたしましょう。あんなに濡れて、冷え切ってしまって……。若君の温かい天幕に連れて行って、私たちが綺麗に洗って、若君の極上の『セーフティ・ヒーリング(放電マッサージ)』でたっぷりと自律神経を整えて(芯まで温めて)もらわなきゃ、風邪を引いちゃいますものね?」
「ミリー……お前、本当に優秀な共犯者(総務・人事担当)だな」
ルディはミリーの細い腰を強く引き寄せ、冷徹な支配欲を燃え立たせた。
確かに、今、絶望の極みにいるテレーゼを「完璧なホワイトな安全環境」で救い出し、その濡れた肉体と傷ついた心を【微弱放電】を交えてとろとろに甘やかしてメンタルケアしてやれば、彼女はルディの絶対的な依存者(社畜)になる。ロベルト領のすべての秘密簿記を掌握し、完全帰属させる「未来の利益」は、今ここで多少のリスクを冒してでも回収する価値がある。
「よし! 全兵員、第二段階(テレーゼ救出・敵進路攪乱)に移行する! これより、我が隊の『土壌安定魔法』を用いた、物理ハザードの逆用を開始する!」
ルディは馬車の扉を開け、泥濘の低地へとその足を下ろした。
彼の二重革靴が、ピシャリと冷たい泥水を捉える。
――その頃、泥の中に這いつくばるテレーゼは、文字通り「この世の終わり(地獄)」の淵に立たされていた。
ガシャガシャと泥を撥ね上げる悍ましい鉄蹄の音が、すぐそこまで迫っている。
前方を見上げれば、ロベルト隊を蹂躙し終えたオルテンシア軽騎兵たちが、血濡れた湾刀を掲げ、獣のような下卑た笑みを浮かべて自分に狙いを定めていた。
「おい、見ろ! ロベルトの文官女だ! 泥だらけだがなかなかの極上物だぞ!」
「ひゃはは! 馬の後ろに繋いで連れていけ! 捕虜としてこき使ってやる!」
(……嫌。嫌あああっ……!)
テレーゼは激しい恐怖で全身の血の気が引き、歯の根がガタガタと音を立てて震えた。
冷たい泥濘に濡れそぼったシャツの下で、豊かな胸が絶望の呼吸と共に激しく波打つ。
逃げる体力などもう一歩も残っていない。今ここで、あの残虐な兵士たちに組み伏せられ、ズタズタにされるのだ。その凄惨な未来図が、信じられないほどのリアルさで脳内にフラッシュバックした。
(お父様、お母様……ごめんなさい。私はここで、尊厳を穢されて死ぬのね……)
テレーゼは、迫りくる死の鉄蹄から目を背けるように、きつく丸眼鏡の奥の瞳を閉じた。
冷たい泥水が頬を伝い、絶望の涙となって流れ落ちる。
全身を硬直させ、最悪の衝撃に備えて縮こまった、その瞬間――。
ふっと、頭上を叩きつけていた冷たい雨風が遮られた。
代わりにテレーゼを包み込んだのは、凍えるような中世の戦場にはおよそ存在するはずのない、微かなハーブの香りと、異質なほど「温かく、圧倒的な安全を内包した男の影」だった。
「――さあ、お嬢さん。お前のいた『極悪ブラック現場(ロベルト隊)』は、これより完全倒産(全滅)だ。俺のホワイトな管理下(保護下)へ、安全に移籍する時間だぞ」
驚愕してテレーゼがパッと瞼を開けると、そこには、泥だらけの戦場を優雅に踏みしめながら、自分を見下ろして不敵に、しかしこの上なく頼もしく微笑むルディの姿があった。
その若い貴族の少年が纏う「絶対に死なない」という強烈な生へのオーラと、ダウンベストから発せられる熱気が、テレーゼの凍てついた心を内側から激しく揺さぶる。
(この、少年は……? バウムガルトの……サボり四男、様……?)
ルディは呆然とするテレーゼを片腕で力強く引き寄せ、その華奢な身体を己の胸板へと押し付けさせると、空いた片手を泥濘の地面へと深く突き立てた。
完全無災害の大勝利を決定づける、ルディの「物理魔法の逆用」が、今、炸裂する――。
はずだった。
しかしその瞬間、ルディの【ガス・温度検知】の視覚に、あり得ない「大ハザード(異常熱源)」が飛び込んできた。
背後のバウムガルト陣営の奥。
ルディの指定した待機場所において、異常な「超高熱の熱溜まり」が、ルディの網膜を真っ赤に焼き尽くさんばかりの勢いで膨張し始めていたのだ。
(……おいおい待て! この急激な空気の熱対流と、狂ったような温度上昇は――エルザか!? あのじゃじゃ馬ボイラー、俺の「残魔力30%以下厳禁、クーリング重視」の操業マニュアルを無視して、独断で最大出力の魔力をチャージしやがろうとしているな!?)
このままエルザに無制限の詠唱(連続フル稼働)を許せば、彼女の体内魔力循環系はオーバーフローを起こし、体温異常上昇による心肺停止――すなわち「自壊(エンジンのボイラー爆発)」という最悪の重大労災(死亡事故)を引き起こす。
(チッ! どいつもこいつも、労務管理のなってねえ限界労働者ばかりだ……! だが、目の前の敵を泥にハメるのも、背後のじゃじゃ馬のオーバーヒートを安全に管理するのも、管理者の俺の義務だ!)
「テレーゼ、しっかりと俺の命綱に掴まっていろ! ――全兵員、これより『泥濘トラップ起動』と同時に、魔術師エルザの『強制ボイラー冷却プロセス』を開始する! 二重のハザードを同時にねじ伏せるぞ!」
「ハンス、最後尾で遅れているロベルト隊の飯炊き女たちを回収(保護)しろ! 貴重な労働資産を泥に捨てるな!ヨシ!!」
押し寄せる敵軽騎兵の鉄蹄。そして背後で爆発寸前のエルザの熱量。
二つの巨大な労働災害ハザードをロジカルに掌握したルディの指先から、大土壌を液状化させる青白い魔導の輝きが奔ったのだった。




