第006話:春の嵐と、不安全行動の生贄
大陸暦一二五四年、春。
青草が萌え出ずるこの季節は、本来なら詩人が恋の歌を口ずさみ、乙女が花冠を編む穏やかなものであるはずだった。
しかし、隣国オルテンシアとの国境地帯に広がる険しい泥濘の山道においては、それは「命の安売り」を強要される、極悪非道なブラック労働の幕開けに過ぎなかった。
ゴウ、と山を裂くような暴風が吹き荒れ、冷たい豪雨――スプリング・シャワーが容赦なく斜面を叩きつける。
雨粒は一粒一粒が針のように冷たく、衣服を濡らし、容赦なく人間の体温を奪っていく。この時代における「雨」とは、ロマンチックな天候などでは断じてない。兵士たちを音もなく蝕み、死へと誘う最悪の【極低温・多湿ハザード】そのものだった。
「ひ、ひぃ……っ、さ、寒い……、足が、動かん……っ」
「おい、そこのドブ川の水を汲め! 喉が焼けるように渇いて死にそうだ……っ!」
「飲むな! 腹を壊して死んだ奴が昨日だけで三人いるぞ!」
「だが、飲まなきゃ今ここで干からびるわ……っ!」
ずぶ濡れになりながら、泥濘の坂を這うように進む一団があった。
上位領主ゼーフェルト辺境伯の動員令に応じ、意気揚々と出征してきた隣領の領主、ロベルト子爵の率いる本隊二百名。
そして彼らの背後を、泥の跳ね返りすら届かない安全な距離を保って、悠然と追従する一団があった。
バウムガルト男爵家が四男、ルディ・フォン・バウムガルトが率いる、わずか五十名の小勢である。
「いやぁ、本当に若君の言う通りにしておいて良かった……!」
バウムガルト隊の最前列を行く老騎士ハンスは、雨の中でツヤツヤとした健康的な顔を輝かせ、誇らしげに顎紐を締めたヘルメットを叩いた。
彼らが身につけているのは、ルディが秋の収穫益で開発した「防刃ハイブリッドダウンベスト」と、撥水リネンで仕立てられたフード付きの軽量外套である。
ウールのように水分を吸ってデッドウェイト化することなく、わずか八百グラムの軽さで極上の体温を維持するそのセーフティギアは、冷たい春の嵐を完璧にシャットアウトしていた。
さらに足元は、靴底に滑り止めの溝を刻んだ特製の「二重革靴」。粘土質の滑りやすい斜面をしっかりとグリップし、転倒による捻挫や骨折を未然に防いでいる。
兵士たちは、水筒に入れた「HACCP(危害分析重要管理点)基準をクリアした沸騰消毒済みの温かい麦茶」を時折口に含み、完璧な体調管理を維持したまま、指差し呼称をしながら整然と歩を進めていた。
一方、ルディ自身はといえば、隊の最後尾に位置する給養馬車の内部にいた。そして、その後方にはエルザ専用の隔離馬車を用意して、定期的に【微弱放電】を流してギリギリで冷却しながら運搬していた。
馬車の中は、魔導温風機によって快適な二十四度に保たれ、ほのかにラベンダーのハーブ香が漂う「異界のホワイト・ユートピア」と化していた。
その極上の空間で、ルディはふかふかのクッションに背を預け、ミリー、サシャ、リタ、ニナの四人の炊事班に囲まれていた。
「若君様、冷えた完熟果実のコンポートでございます。はい、あーんしてくださいっ」
ミリーが、ふっくらとした可愛い胸をエプロンの上からルディの腕に押し付けながら、甘い吐息とともにスプーンを差し出す。
ルディはそれを美味そうに咀嚼しながら、馬車のガラス窓からふと外に視線をやった。
そこには、先行するロベルト子爵隊の、目を覆いたくなるような「最悪のブラック労働環境」が広がっていた。
特に、ロベルト隊の最後尾を引きずるようにして歩かされている「従軍の飯炊き女」たちの姿は、中世における「労働資産の使い捨て」を絵に描いたような凄惨さであった。
総勢十数名の女たちは、泥水にまみれてボロボロになった薄い麻のシュミーズ一枚を纏い、凍える雨に打たれて全員がチアノーゼを起こし、ガタガタと全身を痙攣させていた。足に合う靴すら与えられず、素足は泥濘の中の鋭い石や茨で血みどろに裂け、化膿して黄色い膿を滴らせている。
女たちの背中には、自分たちの体重ほどもある巨大な調理用の大釜や、濡れて数倍に重くなった兵士たちの予備毛布が、容赦なく括り付けられていた。
「ひ、うぅ……動けな……っ」
重さに耐えかね、一人のうら若き少女が泥の中に膝を突き、ずるずると顔から倒れ込んだ。
その瞬間、横にいたロベルト隊の兵士が、待ってましたとばかりに下卑た笑みを浮かべ、腰の革鞭を容赦なく女の細い背中に振り下ろした。
ビシィッ!!! と肉の裂ける悍ましい音が雨音に混じって響く。
「ぐずぐず歩くな、この役立たずの泥犬が! さっさと大釜を運ばねえか!」
「きゃあああっ! ごめんなさい、ごめんなさいぃっっ!」
「おい、この女、少し体に熱があるぜ? 夜の天幕で俺たちの暖房代わりに使ってやるから、今は死ぬんじゃねえぞ!」
兵士たちは憂さ晴らしの暴力を加えながら、泥まみれの女たちの濡れた髪を掴んで引きずり、下品な言葉で嘲笑った。女たちはただ、尊厳をズタズタに引き裂かれながら、泥水をすすって泣き叫ぶことしか許されていなかった。
「……っ!?」
馬車の窓からその光景を覗き込んでいたミリー、サシャ、リタ、ニナの四人が、一瞬にして顔を紙のように白く染め、ガタガタと歯の根を鳴らして震え出した。
「あ……、あ、あんなの……あんまりです……っ」
ミリーの大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女たちの脳裏に、かつて実家で「来年の初陣に備えて、飯炊き女を四人雇う」とルディが父親にゴリ押ししていた時の光景が、鮮烈な恐怖とともにフラッシュバックした。
(もし……もし、あの時、若君が私たちを「炊事班」として雇用してくださらなかったら……)
(もし、あの時、若君が「予備のない現場はいつか崩壊するから、四人目が絶対に必要だ」なんて、よく分からない理屈で私たち全員を囲ってくださらなかったら……)
サシャとリタが、恐怖に青ざめた唇を震わせながら、ルディのズボンにしがみつき、自らのふっくらとした健康的な太ももを、必死にルディの脚に擦り付けた。
ニナもまた、ルディの背中に回り込み、その豊かな双丘を押し付けながら、彼の首筋に激しく保護を求めて白首を擦り寄せる。
彼女たちの瞳に灯っていたのは、もはやただの好意などという生ぬるいものではなかった。
それは、絶対的な生へのセーフティネット――ルディ・フォン・バウムガルトという「唯一無二の神(管理者)」に対する、狂信と盲従、そして極限まで高まった強烈な依存の炎そのものだった。
「若君……っ。私たち、私たち、一生若君のおそばを離れません……っ。私たちの健康を第一に考えてくださる若君のためなら、どんなことでもします……!」
「ルディ様の、あのビリビリする極上の『セーフティ・ヒーリング(放電マッサージ)』がないと、もう私たち、不安で夜も眠れない身体になってしまったんです……! 今日も、今日も私たちの自律神経を強制的に整えてください……っ!」
「お、おいおい、急にどうしたんだ……? 全員で押し寄せられると、魔導温風機の効果もあって室温が急上昇するんだが……」
ルディは、四人分の柔らかく熱い肉体が、これでもかと自分に密着してくる心地よい圧迫感(コンプライアンス的にギリギリの接触)に冷や汗を流しつつも、役員(従業員)のメンタルケアも管理者の義務であると脳内スプレッドシートに言い訳を書き込み、ミリーたちの涙に濡れた頬を優しく撫で回した。
その時、ガシャガシャと不快な金属音を立てて、ロベルト子爵の乗る馬が給養馬車の窓際へと並んだ。
「――いやぁ、ロベルト子爵! さすがは武門の誉れ高きロベルト隊、その頑強な外套の雄姿、そしてお美しい文官令嬢を従えた威風堂々たる行軍、恐れ入ります! 我々のような臆病な弱小隊は、皆様の輝かしい突撃の背中を、安全な最後尾から追いかけるのがお似合いです!」
ルディは、四人の少女たちをシーツの下に隠すように抱き寄せながら、窓を開けてお得意の「不敵な管理者スマイル(営業スマイル)」を向けた。
「ははは! わかればよろしい! せいぜい、我らが立てる泥の飛沫でも浴びながら、後ろで震えているがいい! おい、テレーゼ、遅れるな! 馬を引け!」
ロベルトは泥まみれの高級なウール外套、すでに水分を吸って十キロ以上のデッドウェイト(自重ハザード)と化している外套を揺らし、満足そうに鞭を当てた。滑りやすい粘土質の坂道を、彼はガシャガシャと強引に駆け上がっていく。
その馬の傍らで、泥水に丸眼鏡と顔を濡らしながら、凍える手で馬の手綱を必死に引かされている女性がいた。
ロベルト領の有能な文官令嬢、テレーゼ・フォン・ベルンハルト。
彼女は、馬車の中の暖かそうなルディを一瞬だけ、救いを求めるような、しかし信じられないものを見るような絶望的な瞳で見つめ、ロベルトの怒号に引っ張られるようにして泥の霧の彼方へ消えていった。
窓を静かに閉めたルディは、冷徹な目でその背中を見送った。
(……絵に描いたような不安全行動。重いウール外套、滑る底、凍える体、そこに生水の集団赤痢。そして、有用な人材の酷使とセクハラ。三重、いや四重ハザードのコンプリートガチャだな。あいつ、あのまま行けば自業自得で確実に労災死するぞ)
ルディの脳内スプレッドシートには、すでにロベルト子爵の「死亡フラグ(重大労災発生確率)」が九十九・八パーセントと弾き出されていた。
そして、泥の中に消えていった有能な文官令嬢・テレーゼの「メンタル限界点」が、不気味な赤色のログを伴って静かに、しかし確実にルディの管理システムへと刻み込まれていたのだった。




