第073話:聖女クラリスのOJTと、教義の書き換え
大樹界の奥深くに設けられた、バウムガルト軍の静かな仮設天幕。
そこは、外の騒々しい復旧作業から完全に切り離された、ハーブの香る穏やかな空間であった。
天幕の中央に置かれた簡素な長机を挟み、二人の女性が向かい合っている。
一人は、バウムガルト陣営の総務・財務を統括するテレーゼ・フォン・ベルンハルト。
そしてもう一人は、先日まで空から死の急降下爆撃を試みていたセルヴィア聖王国の異端審問官にして聖女、クラリスであった。
クラリスは、泥と汗にまみれていた白銀の重甲冑をすでに脱ぎ捨て、柔らかな純白の法衣だけを身にまとっていた。しかし、その手は祈りのために組まれることはなく、机の上に広げられた分厚い『バウムガルト軍の物資管理台帳』と『完全無災害(ゼロ災)の記録簿』の上で小刻みに震えていた。
「……信じられません。この国境の凄惨な戦において、一人の死者も、重傷者すらも出していないなど。神の奇跡ですら、これほど多くの命を完璧に救うことはできないというのに……」
クラリスは、青い瞳を激しく揺らして呟いた。
彼女の生きてきたセルヴィア聖王国では、苦痛に耐え、血を流し、身を削って命を捧げることこそが神への至高の信仰(試練)であると教え込まれてきた。
「奇跡などではありませんわ、クラリス殿。これはすべて、ルディ様が定められた『規則(SOP)』と、緻密な『強度計算』がもたらした必然の結末なのです」
テレーゼは丸眼鏡をそっと指先で押し上げ、冷たいハーブティーの入った杯をクラリスの前へと滑らせた。
「空から落ちる命を、祈りの言葉が物理的に引き止めてはくれません。ですが、あの方が編み出したこの命綱の『強度計算式』と、それを必ず身につけるという『義務化の規則』は、確実に人を死の淵から引き戻す。……クラリス殿、あなた自身が、昨日の高空でそれを身を以て体験したはずです」
「ッ……!」
その言葉に、クラリスの肩がびくりと大きく跳ね上がった。
数十メートルもの高空。枝に引っかかり、いつ服が破れて絶望の泥の中へ墜落し、肉塊になるかわからないという極限の恐怖(交感神経の過緊張)。
その中で、悪魔だと思っていた少年ルディが自分に括り付けた一本の太い帯――『フルハーネス型安全帯』の圧倒的な拘束力と、絶対に落ちないという心理的安全性。
そして、彼の指先から首筋を通って脳髄へと流し込まれた、青白い雷の快感パルス【微弱放電】の記憶が、鮮烈にフラッシュバックしたのだ。
「あ……、ぅ……っ」
恐怖でガチガチに強張りきっていた全身の筋肉と神経が、あの甘く苛烈な低周波パルスによって芯から解きほぐされ、信仰も誇りもすべてが真っ白に塗りつぶされたあの瞬間。
それを思い出しただけで、クラリスの自律神経は急激に過反応(漏電)を起こし、法衣の下で白く滑らかな太ももは熱を帯び、自然とすり合わされてしまう。
「あの方の定めた規則に従えば、命が守られる。そして……あの方にすべてを委ねれば、痛みや苦しみに耐える必要などなく、ただ甘美な安らぎ(極上の放電マッサージ)だけが与えられる。……私自身、かつては膨大な数字と重圧(過重労働ハザード)に押し潰されそうになっていました。ですが、あの方が私を休ませ、その温かい指先で私をアースして(癒やして)くださったのです」
テレーゼは、自らの丸眼鏡の奥に熱い色香を漂わせ、クラリスの手をそっと握った。
「神に苦痛を捧げるブラックな教義など、もう捨てなさい。ルディ様の求めるものは、誰もが命を落とさぬ平穏な『ホワイトな現場』です。それをロジックで理解し、人々の心を救済すること。それが、あなたに与えられた新たな『教義』なのです」
「ルディ様の、教義……。苦しまずとも、命が守られ、満たされる世界……」
クラリスの青い瞳から、かつての狂信的な険しさが完全に抜け落ちた。
代わりに、彼女の顔には、ルディの絶対的な庇護とあの電撃の快感を渇望する、熱く蕩けた従順な色が浮かび上がっていた。
「私……間違っていましたわ。真の救済は、天の神ではなく……あの温かい手のひらの中にこそあったのですね。私、ルディ様のために、このバウムガルトの規則を人々に説き、迷える心を救う『新たな最高衛生責任者』として生まれ変わります……!」
天幕の入り口から、その様子を静かに見守っていたルディ・フォン・バウムガルトは、満足げに頷き、自身の網膜上に展開されたスプレッドシートに完了のチェックを入れた。
(よし。テレーゼによるOJT(実地研修)は極めて順調だな。数字とロジックを用いたマインドセットの書き換えで、狂信という名のバグが完全にデバッグされた。これなら、彼女を組織のメンタルケア担当として運用しても、宗教トラブル(不安全行動)を起こすリスクはゼロだ)
ルディは足音を立てて天幕の中へと足を踏み入れた。
「テレーゼ。進捗はどうだ」
ルディの姿を見た瞬間、クラリスの顔が真っ赤に染まり、彼女は慌てて立ち上がって深く頭を下げた。
「ルディ様。クラリス殿は大変賢明でいらっしゃいます。兵士たちの心の救済と、規則の重要性を説く役目は、すぐにでも彼女にお任せできるかと存じますわ」
テレーゼが優雅に一礼して答える。
「そうか。それは素晴らしい」
ルディはクラリスの前に歩み寄り、彼女の金の髪をそっと撫でた。
その指先からほんのわずかに流れた静電気が、クラリスの敏感な神経を甘くくすぐる。
「ひゃぅっ……!」
クラリスは小さな悲鳴を上げ、膝から崩れ落ちそうになるのを必死でこらえた。うなじには、心地よいデトックスの汗がうっすらと滲んでいる。
「クラリス。俺はお前の過去の信仰や敵対行動で評価を下したりはしない。お前が俺の陣営で『安全かつ正確に』タスクをこなす限り、最高の労働環境と報酬を保証する」
ルディは彼女の震える肩を抱き寄せ、耳元で冷徹に、しかしこの上なく甘く囁いた。
「お前を我が陣営の『最高衛生責任者(メンタルケア特化)』に任命する。俺の定めたマニュアル通りに兵士たちの心のケアに当たれ。……成果を出せば、必ず正当なボーナス(夜の特別安全点検)を出してやる」
「あぁっ……ありがとうございます、ルディ様……! 私、あなた様のために、この身のすべてを捧げて働き抜きますわ! ですから……その、また私に、あの温かい雷を……っ」
上目遣いで歓喜の涙を流し、すり寄ってくるクラリスを見て、ルディは口角を上げた。
(人事評価に対する適切なインセンティブの提示、ヨシ。これで彼女のモチベーションは天井知らずだ。労働力の囲い込み(ロックイン)は完全に成功したな)
こうして、対バウムガルト大同盟の最後の一角であったセルヴィア聖王国の脅威は、ルディの圧倒的な安全管理ロジックと財務主任の完璧なOJTによって、完全に無害化(ホワイト吸収)されたのである。




