第068話:大樹界の宣戦布告と、陽圧式化学防護服
南方の大河の河口。完成したばかりの水上プラットフォームの上空に、異様な黄色の雲が不気味な風に乗って急速に接近していた。
大河は薄暗く染まり、初夏の眩しい太陽の光さえも、その奇妙な雲に遮られていく。
(……この大気中の微粒子濃度の上昇速度、異常だ。ただの自然現象(花粉)じゃない。致死性の神経毒を含んだ特定化学物質、ならびに人体に寄生するタイプの特殊な胞子構造……極悪な広域バイオハザードだ! このまま吸い込めば、全作業員が急性中毒で労災死するぞ!)
ルディ・フォン・バウムガルトの網膜に常時展開された【ガス・温度検知】は、かつてない規模の真っ赤な警告を激しく点滅させていた。
「ルディ様、あの雲は一体……」
傍らに立つオルテンシアの第一王女フィオナが、不安げに青い瞳を揺らし、ルディの腕にすがりついた。
ルディは即座に拡声用の魔導具を手に取ると、腹の底から、プラットフォーム全体を震わせるような怒号を張り上げた。
「全作業員(全軍)に通達! 直ちに作業を中止し、屋内へ退避しろ! 呼吸保護具なしでの外気との接触を完全に断て!」
ルディのロジカルで力強い声が、巨大な桟橋に響き渡る。
「第一倉庫に保管してある『陽圧式化学防護服(レベルA)』を全員直ちに着用しろ! 全面マスクの密閉性を指差し確認し、外部との気圧差を維持しろ! これは極めて危険な特定化学物質の散布だ、一粒でも吸い込めば命はないぞ!」
ルディの突然の、しかし有無を言わせぬ絶対的な指示に、現場の作業員たちは一瞬の混乱を見せたものの、日頃から叩き込まれた防災ドリル(KYT活動)の成果を完璧に発揮した。
彼らは一目散に倉庫へと駆け込み、ルディが万が一の事態に備えて用意させていた分厚いゴム引きの防護服と、大きなガラス面のついた全面マスクを次々と身につけていく。
「フィオナ、ヴィクトリア! そしてエルザ、アイラもこれを着ろ! 防護服の着脱手順は教えてあるな!」
「は、はい、ルディ様……!」
「かしこまりましたわ。……ルディ様が用意してくださったこの特別な防護服、なんだか安心いたしますわね」
「わ、わかったよ、若君様! 安全第一、ヨシ!」
「ふふ、お任せくださいませ」
四人はルディから手渡された防護服を受け取り、慌ただしく身を包んだ。
その直後、黄色い粉塵を含んだ突風が、水上プラットフォームを猛烈な勢いで飲み込んだ。
シューッ……!
桟橋の木材に付着した粉は、触れた場所から音を立てて木を腐らせ、周囲に生えていたわずかな草花は一瞬にして黒く変色して枯れ果てた。
「ひぃっ……! な、何ですの、この恐ろしい粉は……!」
防護服の厚いガラス越しにその惨状を見たフィオナが、息を呑んで後ずさる。
「恐れるな。この『陽圧式化学防護服』は、内部の気圧を外部より高く保つことで、有毒ガスや病原菌の侵入を物理的に100%シャットアウトする完全密閉システムだ。防護係数1万の壁は、いかなるバイオハザードにも突破されない」
ルディは全面マスク越しに、冷徹な声で告げた。
黄色い死の粉が舞い散る中、完全な防護服に身を包んだバウムガルトの作業員たちは、誰一人として咳き込むこともなく、ただ異様な光景を無傷のまま見つめていた。
「おおお……! なんという完璧な防毒システム……! 若君は、この死の粉塵すらも予測し、我らの命を守るための『神の衣』を用意してくださっていたのだ!」
老騎士ハンスが、防護服の中で涙を流しながら狂信の声を上げる。
その時、粉塵が渦巻く空から、一人の人影がふわりと舞い降りてきた。
長い緑色の髪を風になびかせ、透き通るような白い肌と、尖った耳を持つ美しい女性。彼女が降り立った瞬間、周囲の枯れ果てた植物が異常な速度で茨のように絡み合い、彼女の足元に玉座を作り上げた。
大陸最大の不可侵領域「大樹界」を統べる者、エルフの女王ティターニアであった。
彼女の瞳は深い緑色に輝いていたが、そこには深い悲しみと、燃え上がるような怒りが宿っていた。
「大地の静寂を破り、鋼と石で我らが川を穢す者たちよ」
ティターニアの涼やかで、しかし冷酷な声が、死の粉が舞う空間に響き渡った。
「そなたたちの傲慢な開発は、森の嘆きとなり、大地の悲鳴となって私に届いている。大樹界の女王ティターニアの名において、自然の怒りを下そう。この死の毒花粉に触れ、己の愚かさを悔いながら、等しく土へと還るがよい」
彼女は冷ややかにルディたちを見下ろした。彼女の放つ魔力は圧倒的で、周囲の空間そのものが彼女の怒りに呼応して歪んでいるように見えた。
だが。
(……環境テロリストの親玉のお出ましというわけか。だが、あの女王自身の様子がおかしいぞ)
ルディは、全面マスクの奥で目を細めた。
ディテクターの数値が、ティターニアの身体から異常なエラーログを激しく吐き出していたのだ。
(自然の悲鳴と同調しすぎた結果、極度の感覚過敏に陥り、自律神経が暴走(メルトダウン寸前)している。おまけに、自ら放った毒の魔力が自身の身体にも寄生して、魔力回路がボロボロに傷ついているじゃないか。
……無理な環境保護活動の果てに、自分自身が有害物質に蝕まれている。これは、典型的な『自己犠牲のブラック労働』だ!)
ルディは、防護服の重い足音を立てて、ティターニアへと一歩踏み出した。
「自然の怒りだと? 笑わせるな」
マスク越しに拡声されたルディの機械的でロジカルな声が、ティターニアの耳に届く。
「お前の撒き散らす有害物質は、我が陣営の『陽圧式化学防護服』の前には完全に無力だ。見ての通り、誰一人としてお前の毒に倒れてはいない」
「な……に……?」
ティターニアは、ようやく目の前の光景に気づき、緑色の瞳を驚愕に見開いた。
彼女の放った猛毒の花粉は、触れれば皮膚を爛れさせ、吸い込めば一瞬で命を奪うはずだった。しかし、目の前にいる者たちは、不気味な分厚い服と奇妙な仮面をかぶったまま、平然と立ち尽くしているのだ。
「なぜ……。森の死の粉を浴びて、なぜ立っていられるの……」
「それよりも、お前自身のその危険な健康状態をどうにかするのが先じゃないのか?」
ルディは、ティターニアの痛々しいほどに強張った身体を指さした。
「自然と同調しすぎたせいで、あらゆる刺激に過敏になり、夜もまともに眠れていないはずだ。さらにその毒の魔力は、お前自身の神経系に寄生して蝕んでいる。……お前は今、最悪の『特定化学物質障害』を発症しているぞ」
「あ……」
ティターニアの肩がびくりと震えた。彼女が長年、誰にも言えずに一人で抱え込んでいた苦痛を、見ず知らずの少年がいとも簡単に言い当てたからだ。
「なぜ、私の苦しみがわかるというの……。私は、森を守るために、この痛みに耐えねばならないのに……っ!」
「我慢は不安全行動だ。自己犠牲の精神論で森(現場)が守れるか」
ルディは、ティターニアの眼前へと歩み寄り、冷徹な安全管理者として宣告した。
「安全管理者として、お前のような限界労働者を放置はしない。これより、お前の身体に寄生した魔力毒を、俺の手で強制的に除染してやる。……覚悟しろよ、エルフの女王」




