第035話:鉄壁の改竄帳簿(コンプライアンス・カモフラージュ)と、漏電する斥候(アーシング・ガール)
――カリカリ、カリカリ、カリカリ。
監査二日目の朝。領主本邸の帳簿室には、羽根ペンが羊皮紙を引っ掻く乾いた音だけが、延々と響いていた。
主席監察官ギルバート・フォン・オルデンは、長机に山と積まれた帳簿の頁を、白手袋の指でめくり続けている。その背後には、二人の補佐官が控え、彼の一挙手一投足を記録していた。
「……ふん。横領、兵糧の不正貯蔵、人頭税の中抜き……このどれか一つでも尻尾を出せば、辺境伯もろとも吊るし上げてやれるのだがな」
ギルバートは、爬虫類のような目を細め、帳簿を睨みつける。
だが――何も、出てこない。
「閣下。こちらの収支、いかがでしょう」
財務・総務主任のテレーゼが、丸眼鏡を冷たく光らせ、すっと一冊の帳簿を差し出した。
「ご覧の通り、当ロベルト領は、戦災からの復興でやっとのこと。黒字とは名ばかりの、薄氷の経営でございます。一枚の領収書の齟齬もございません。どうぞ、隅から隅まで」
(……完璧だ。テレーゼとクレアが一晩で仕上げた「ダミー帳簿」。黒字スレスレ・ギリギリ赤字回避。なのに一銭の計算ミスもない。「貧しくも真摯な辺境領主の苦闘」っていう物語を、数字だけで完璧に演出してる)
ルディは、壁際で恭しく頭を垂れながら、内心で唸った。
(本物の決算書――大陸随一の高収益を叩き出してる「黒字パラダイス決算」のほうは、地下金庫に厳重封印済み。表に出してるのは、徹底的に旨味を消した「見せ帳簿」だけ。前世で監査法人に提出した「節税後の薄い利益」みたいなもんだな。……我ながら、こすい)
ギルバートの眉間の皺が、刻一刻と深くなっていく。獲物を求めて隅々まで嗅ぎ回るが、どこを掘っても泥しか出てこない。彼の苛立ちは、もはや限界に近づいていた。
◇ ◇ ◇
「閣下。ご休憩がてら、領内の備蓄庫を視察なさいますか。何もない田舎ではございますが」
ルディは、用意しておいた「迂回ルート(誘導動線)」へと、にこやかにギルバートを導いた。
このルートは、昨夜のうちに練りに練った安全設計の結晶だ。本物の設備――エルザの防爆砲座シェルター、兵器庫、魔導炉のたぐいは、すべて「管理区域(立入禁止)」として動線から完全に切り離してある。ギルバートが歩くのは、帳簿室から備蓄庫へ抜ける、当たり障りのない一本道だけ。
(ハザードはすべて隔離済み。この道の上には、危険なものは何一つ見えないはずだ。安全管理、ヨシ――)
その、油断した一瞬だった。
迂回ルートの途中。ダミー配管の煤塗り作業を割り当てていた、エルザ補佐の少女・ルシールの脇を、ギルバートが通りかかったとき。
バチッ。
乾いた配管に触れたルシールの指先で、小さな静電気が爆ぜた。
「ひゃぅっ……!」
その瞬間、ルシールの全身が、ビクンと甘く跳ねた。
(……あ)
ルディの背筋を、嫌な予感が走り抜ける。
ルシールは、かつてエルザの暴走を抑えるOJT(実地訓練)の過程で、ルディの「微弱放電」を浴び続けた結果、軽い電撃パルスに過敏に反応してしまう「OJT後遺症(アーシング体質)」を抱えていた。閾値以下の刺激なら問題ない――そう判断して、この配置を決めたのだ。
だが、ルディは見落としていた。乾いた配管と煤、そして秋の乾いた空気。この組み合わせが生む静電気の量を、「迂回ルートのハザード」として安全マップに反映し忘れていたのだ。
「ん、ふぁ……っ、だめ、これ、ビリビリして……身体の、芯が……痺れて……っ!」
支給された防塵用の麻布マスク越しに、熱い吐息を漏らし、煤まみれの作業着の裾から、ルシールが内腿をもじもじと擦り合わせる。とろん、と瞳が潤み、頬が桜色に染まり、配管を抱きしめるようにして、自律神経の過反応(漏電)でうっとりと腰をくねらせはじめた。白いシュミーズの太ももを、極上のデトックスの汗がじっとりと濡らしていく。
(まずいッ! 完全に発症した! しかも、よりによって監察官の真正面で! これは完全に俺の管理ミス(ヒューマンエラー)だ! 静電気リスクのアセスメント漏れ! 安全衛生管理者として、猛省すべき重大インシデント――)
ルディが青ざめる一方で。
ギルバートの顔は、別の意味で蒼白に染まっていた。
(な……なんだ、あの少女は……ッ!? 倉庫で煤を塗りながら、なぜ腰をくねらせ、恍惚の表情を浮かべて、尋常ならざる汗を流しているのだ……!? あれは……あれは間違いない……「精神操作魔術」だ! あの娘は、強制的に恍惚状態にさせられている、洗脳の被害者だ! この十五歳の小僧……禁忌の精神魔導を行使して、領民を意のままに操っているのか……ッ!?)
ギルバートが戦慄に震えるのをよそに、ルディは慌ててルシールに駆け寄った。
「おいッ、アース線! こんなところで漏電するな! ダミー作業に集中しろ! ……『打ち上げ』まで、おあずけだと言っただろうが!」
「ふぁい……っ、ごめんなさ、ぃ……っ、でも、勝手に、身体が……っ!」
(おあずけ……? アース線……? 漏電……?)
ギルバートの背筋を、新たな悪寒が走った。
(やはりだ! 「魔術師」が、操り人形に命令を下している! 「アース」とは精神支配の魔導用語に違いない! あの娘は、もはや人間ではなく、魔力を流し込まれた「端末」なのだ……! おぞましい……おぞましいぞ、この領は……!)
(――頼むから、ただの静電気だと気づいてくれ……。いや、気づかれたらカモフラージュが崩壊するから、気づかれないほうがいいのか……? もう何が正解なんだ……)
ルディは、こめかみを引きつらせながら、必死で平静を装った。
◇ ◇ ◇
その日の夕刻。
結局、丸一日かけても、ギルバートは何一つ「決定的な不正」を掴むことができなかった。
「……ふん。だが、甘く見るなよ、小僧」
ギルバートは、苦し紛れに帳面を広げ、爬虫類の目で粗探しを再開した。
「ここだ。戦災で焼失したと申告されている十年前の地税台帳――この未提出は、明確な『書類管理義務違反』だ。それと、辺境特有のこの度量衡の差異。これは王国標準への『不適合』とみなせる。リポートに記載させてもらうぞ」
「……仰せの通りでございます、閣下。当方の不徳の致すところ。謹んで、指摘事項として承ります」
ルディは、深々と頭を下げた。
(……出た。クレーマー対応の鉄則、その二――「生贄の差し出し」。何の不正もない相手は、難癖をつけても引き下がれない。だから、こっちから「どうでもいい軽微な指摘事項」を、生暖かいお土産として差し出してやる。「ちゃんと指摘してやったぞ」っていう手柄を持たせて、満足して帰ってもらう。これで向こうの面目も立つ。Win-Winの「落とし所」だ)
帳面に「指摘事項」を書き留めながら――しかし、ギルバートの内心は、満たされてなどいなかった。
(……これだけでは、足りん。「十年前の焼失書類の未提出」「度量衡のわずかな差異」――こんな些末な指摘では、王都に戻れば、宮廷の連中に鼻で笑われるだけだ。『たったそれだけか、オルデン卿』と。……もっと、もっと大きなものを掴まねば。あの洗脳魔導の証拠さえ押さえれば、この小僧も辺境伯も、一網打尽にできるというのに……ッ!)
紫水晶の指輪を、ギリ、と握りしめる。彼の執念は、消えるどころか、暗く燃え上がっていた。
◇ ◇ ◇
夜半。領主本邸の執務室に、二つの報告が相次いで届いた。
まず、窓辺の影から、猫のように音もなく斥候のセシルが滑り込んできた。
「若様、外周の定時報告だよ」
セシルは、前歯を見せてニッと笑う。
「敵さんの野営地、もうボロボロ。風下の平原に押し込められて、仮設トイレは行列、飯は冷めた携行食。見張りの交代は二刻おきだけど、みんなあくびばっかり。伝令が一日に三回、王都方面に飛んでる。……でね、兵たちの愚痴を風に乗せて拾ったんだけど――『こんな田舎、早く帰りてえ』が、もう大合唱だよ」
「……さすがだ、セシル。前方危険探知の精度が異常に高いな」
ルディは、脳内スプレッドシートに「敵戦力の士気:低下中/撤退圧力:上昇中」と書き込んだ。
(外周の行動データ、完璧。これでセシルの前方探知のラインは押さえた。あとは――)
「ルディ様。私からも、ご報告を」
入れ違いに、内部監査・コンプライアンス担当のエリーゼが、無表情のまま現れた。元・王国のスパイである彼女の声は、氷のように静かだ。
「昼間、帳簿室の視察が終わった直後、オルデン卿の副官に『接触』しました。王都訛りで世間話を装い、三分ほど。――『調達』しました」
エリーゼは、淡々と続けた。
「一、オルデン卿が探しているのは、辺境伯を失脚させる『大きな不正の証拠』。
二、彼の背後にいるのは、宮廷の反辺境伯派閥。
三、彼の報告期限は、王都帰還後の五日以内。そして退路は、来た道をそのまま引き返すルートのみ」
「……ぞっとするな、お前の仕事ぶりは」
ルディは、思わず半笑いになった。
(スパイを管理職に転用すると、こういう副産物が出るのか……。「帰社後の後処理(根回し)」のスケジュールまで、勝手に抜いてくるとは。エリーゼが内側、セシルが外周――内部監査と前方探知の、完璧な二重チェック体制だ。これで、向こうの「捨て台詞の脅し」が本物かどうかも、帰り着く前に判別できる)
ルディは、二人の有能すぎる幹部を前に、安堵と戦慄を半分ずつ感じながら、ふぅと息を吐いた。
(情報は完璧に握った。敵の士気は崩れかけ、撤退は時間の問題。……あとは、明日の夜の「山場」を、無事に乗り切るだけだ)
◇ ◇ ◇
だが、その夜。
執務室の扉の外で、もう一つの「未処理タスク」が、限界寸前まで膨れ上がっていた。
総務補佐のクレアである。
(昨日も……今日も……。テレーゼ様もエルザ様も、夜のケアを受けて……ルシールさんなんて、お昼間から、あんなに気持ちよさそうに……っ)
クレアは、白いシュミーズの胸元をぎゅっと握りしめ、扉の前でへたり込んでいた。昨夜、ルディが二人の幹部の自律神経を「調律」する光景を覗き見て以来、彼女の身体の奥には、消えない熾火が灯り続けている。
(わたしだって……わたしだって、ルディ様のお帳簿を、一晩中、必死に仕上げたのに……。「ご褒美(お仕置き)」が、欲しいのに……。わたしの番は……いつ……っ)
きゅう、と内腿を擦り合わせ、クレアは極上のデトックスの汗を滲ませながら、熱い吐息を漏らした。
その切なる「おねだり信号」が、ルディに届くのは――もう、すぐそこまで来ていた。




