第034話:抜き打ち本社監査(サプライズ・インスペクション)と、監査前夜の緊急アース
――ドッ、ドッ、ドッ、ドッ。
晩夏の朝靄を裂いて、五十頭ぶんの蹄鉄が、世界初のガードレール付き「ロベルト安全街道」を踏み鳴らしていた。
整備されたばかりの石畳は、雨でも泥濘に変わらぬよう排水勾配まで計算され尽くしている。その完璧な路面の上を、磨き抜かれた白銀の鎧と、金糸で王家の紋章を縫い取った深紅のマントの群れが、まるで一本の槍のように、まっすぐ領主本邸を目指して進軍してくる。
先頭の漆黒の馬上には、白髪を後ろへ撫でつけ、これ見よがしに紫水晶の指輪をはめた壮年の男――王国宮廷の主席監察官、ギルバート・フォン・オルデン(四十八歳)が、辺境の田舎領地を見下ろすように、薄い唇を吊り上げて座っていた。
「――若君ッ! 若君ぁぁぁッ! た、大変でございますッ!!」
豪奢な行列を物見櫓から確認した老副官ハンスが、白髭を振り乱し、滝のような涙を流しながら、領主本邸の階段を四段飛ばしで駆け上がってきた。
「と、ついに……ついに王国の中央が、若君の安全特別区に、嫉妬の牙を剥いてまいりましたぞッ! しかし若君なら、しかし若君ならばッ……うっ、ぐすっ……必ずや、この危機すらも涼やかに乗り越えられると、この老体は確信しておりますッ!!」
「いや、まだ何もしてないんだが……」
ルディ・フォン・バウムガルトは、領主本邸のバルコニーから街道の彼方を一瞥し、こめかみを押さえた。
(……いくらなんでも本社の対応が早すぎるだろ。先日、斥候が「接近を検知」したと思ったら、もう翌日の朝には城門前だ。監査のためだけに「魔導通信」だの「遠距離転送陣」だのをフル稼働させて急行してきたっていうのか? こいつら、出張旅費の予算感覚が完全にバグってるだろ……)
ルディの脳内に展開された「スプレッドシート(リスク管理表)」が、けたたましいレッドアラートを点滅させはじめる。
(王宮の政治闘争――こいつは、「本社の派閥争い(デス・プロジェクト)」に巻き込まれる、最も死亡率の高い超極大ハザードだ。前世でも、現場(工場)が黒字を出した途端、本社の重役が手柄を横取りしに視察に来た。あの最悪のパターンと完全に一致している)
「ハンス。泣くな、業務に支障が出る。それと……ヒルデとテレーゼ、エリーゼ、セシルを執務室に集めろ。緊急の安全衛生委員会(カモフラージュ作戦会議)を招集する」
「はっ……はいぃぃッ! 若君の冷静沈着なるご采配ッ……感動でまた涙腺が決壊いたしましたぁぁッ!!」
号泣しながら駆け去るハンスの背を見送り、ルディは深々と溜息をついた。
(ただの、田舎暮らしを続けたいだけのサボりたがり四男だぞ、俺は……。なんでこう、人が有給を消化しようとするたびにブラックなタスクが降ってくるんだ……)
◇ ◇ ◇
半刻後、領主本邸の執務室。
集められた幹部たちを前に、ルディは羊皮紙に走り書きした一枚の図を、コツコツと指で叩いた。
「いいか、敵のハザード特性はすでに特定済みだ。あいつは『極めて悪質なカスタマーハラスメント(カスハラ・クレーマー)』。理不尽な難癖をつけて、現場の利益(俺のサボり有給)を脅かしに来る、最悪の取引先(モンスター顧客)だ」
「ふむ。では、感情的に反論するのは下策、ということですわね」
財務・総務主任のテレーゼが、丸眼鏡をクイと押し上げる。
「その通りだ、テレーゼ。クレーマー対応の鉄則は、ただ一つ――『マニュアル塩対応』。決して怒らず、決して譲らず、決して尻尾を掴ませない。完璧に貧しく、完璧に従順で、完璧に何の旨味もない辺境領を、徹底的に演じきる」
ルディは図面に、いくつもの×印と矢印を書き込んでいく。
「これより、領内を『ハザード隔離マップ』に基づいて再配置する。本物の設備――エルザの防爆砲座シェルター、兵器庫、魔導炉のたぐいは、すべて『管理区域(立入禁止)』に指定。そのうえで、監察官どもが安全に視察できる『迂回ルート(誘導動線)』を一本だけ引く。あいつらには、このルートの上だけを歩かせる」
「具体的な偽装の手順を、確認させてくださいませ」
エリーゼが、無表情のまま帳面を構えた。元・王国のスパイである彼女のペン先は、こういうときだけ妙に活き活きと動く。
「ああ。リストアップするぞ」ルディは指を折った。
「一、エルザのシェルターの扉に『温水ボイラー室(給湯設備)』のダミー看板を掲げろ。出力はゼロでいいが、煙突からは本物の湯気をモクモク出して、それっぽく見せろ。
二、ヒルデの警備隊は、支給したダウンベストを全部脱げ。ボロ布をまとって『装備も買えない貧乏自警団』を演じるんだ。
三、クレアたちが作った完璧なKPIレポート(黒字決算書)は、地下金庫に封印。机の上には、ダミーの『計算ミスだらけ・黒字スレスレ帳簿』だけを並べておけ」
「四、五十人の補償乙女たちは、白いシュミーズの上から、煤で汚したダボダボの農作業着を重ね着すること。
五、監察官専用の野営地は『風下の平原』に隔離。専用の仮設トイレを急造して、領内のホワイトインフラ(清潔な水洗便所や温水浴場)は一切使わせるな」
「……若君。最後の一つ、地味に意地が悪くありませんこと?」
テレーゼが、口元を扇で隠してクスリと笑った。
「意地悪じゃない、安全管理だ」ルディは真顔で言い切った。「快適な設備を見せれば『この領は豊かだ=搾り取れる』と誤解させる。徹底的に不便を体験させて『こんな田舎、長居する価値もない』と思わせる。これは立派な『離脱率コントロール』だ」
それから、ルディは部屋の隅で控えていた斥候のセシルに目をやった。
「セシル。お前には外周を頼む。あいつらの野営地を、見つからない距離からずっと監視しろ。伝令の出入り、補給物資の量、夜の見張りの交代周期……それと、兵どもの『士気』の変化を逐一報告してくれ」
「りょーかい。任せといて、若様」
猫のようにしなやかな斥候の少女は、ニッと前歯を見せて笑った。
「あたしの『前方危険探知』にかかれば、敵さんがいつ音を上げるかまで読めるよ。……ま、トイレも飯も最悪な野営地に押し込められたら、あの軟弱な中央のお役人さま、三日もすれば自分から帰りたがるんじゃない?」
(……外周の行動データまで揃えられるのか。これでエリーゼの内側からの情報抜き取りと合わせて、内部監査と前方探知の二重チェック体制だ。監査の『終了予定日』まで見積もれる。……うちの斥候、有能すぎて怖いな。手順、ヨシ)
ルディは、ひそかに脳内スプレッドシートへ「撤退予定日:三日後(暫定)」と打ち込んだ。
「最後に、一番大事なことだ」
ルディは、執務室の全員を見回し、声を低めた。
「絶対に、絶対に、先に手を出すな。たとえ向こうがどれだけ高圧的でも、どれだけ無礼でも、こちらから手を出した瞬間、こっちが『労災の加害者』にされる。警備隊にも伝えたとおりだ――相手が明確に『安全基準違反(女性への暴力・セクハラ)』のデッドラインを越えたその一瞬だけ、正当防衛を許可する。それまでは、全員、完璧な『営業スマイル』で耐え抜け。これが我が領の絶対的なコンプライアンスだ」
「「「「ハッ! 安全第一、ヨシ! 隠蔽工作、ヨシ! 営業スマイル、ヨシ!!」」」」
(よし。これで迎撃準備は整った。……あとは、俺がボロを出さなければいい。それが一番のハザードなんだが)
◇ ◇ ◇
その日の夕刻、城門前。
「これはこれは、オルデン主席監察官閣下。遠路はるばる、このような辺鄙な田舎まで、まことにご足労いただき、恐悦至極にございます」
ルディは、用意した一張羅の質素な礼服に身を包み、地面に額がつかんばかりに、恭しく頭を垂れた。
「……ふん」
馬上のギルバートは、ようやく地に降り立つと、白手袋の指先で、まるで埃でも払うようにルディの肩先をなぞった。
「これが、最近やたらと辺境伯が持ち上げている『神童』とやらかね。なるほど、まだ乳臭い小僧ではないか。……いいかね、坊や。私の復命書のインプレッション一つで、君のような新興貴族の未来など、一瞬で倒産れるのだよ。せいぜい、私の機嫌を損ねぬよう、誠意を尽くすことだ。なに、賢い君なら、私が何を求めているか……言わずとも分かるだろう?」
紫水晶の指輪が、夕陽を受けてギラリと光る。
(あー……出た出た。完全に『袖の下(賄賂)』と『便宜供与(接待)』の要求だ。前世の悪質な抜き取り検査員と、台詞のテンプレートまで一緒じゃないか。……心の中の証拠保全フォルダに、しっかり記録しておこう。「カスハラ発言ログ・001」、保存ヨシ)
「もちろんでございます、閣下。当領の精一杯の歓迎を、ご用意させていただきました」
ルディは、顔には汗一つ浮かべず、完璧な営業スマイルで頭を下げ続けた。
その夜、コンプライアンスに抵触しない範囲で用意された「最低限かつ最高の歓迎晩餐」――バウムガルト男爵領から急遽取り寄せたスノー・ロプの炙り肉と、年代物の赤ワインを前に、ギルバートは満更でもなさそうに杯を傾けた。だが、その間も、ルディが寄越す情報のすべてに難癖の楔を打ち込もうと、その目だけは爬虫類のように冷たく光り続けていた。
◇ ◇ ◇
晩餐が終わり、深夜。
領主本邸の執務室に戻ったルディは、フカフカのソファに沈み込むなり、両手で顔を覆った。
(……ダメだ。ストレス指数(自律神経の負荷)が、完全に危険域に振り切れてる)
脳内スプレッドシートが、明滅するアラートで埋め尽くされていく。
(明日からが本番の監査だっていうのに、この精神状態はまずい。ストレスによる判断力の低下は、明日の塩対応における致命的なミス――つまり「うっかり本音を漏らす」「カモフラージュの綻びを見落とす」っていう、最悪の二次災害に直結する重大ハザードだ)
ルディは、ゆっくりと顔を上げた。その目には、もはや臆病な四男ではなく、一人の冷徹な「安全衛生管理者」の光が宿っていた。
(……対策は一つ。今夜のうちに、幹部要員による『精神的負荷の強制緩和』を実施し、明日に向けて自律神経を最適化しておく必要がある。これは決して、やましい行為じゃない。明確な業務だ。労働災害を未然に防ぐための、正当な予防保全だ。……手順、ヨシ)
「テレーゼ、エルザ。緊急の業務だ。入ってくれ」
ルディの呼びかけに、薄い夜着をまとった二人の幹部が、しずしずと執務室へ滑り込んできた。
「お呼びでしょうか、若君……。こんな夜更けに緊急の業務だなんて……ふふ、わたくし、なんだか胸が高鳴ってしまいますわ」
丸眼鏡を外したテレーゼが、心地よいハーブの香りを漂わせ、頬を上気させて吐息を漏らす。
「ル、ルディ様……っ。わ、私、何かお役に立てるんですか……? あの、私、最近、ルディ様のことを考えると、魔力が……身体の奥が、かぁっと熱くなって、過熱してしまって……」
火力兵器担当のエルザは、もじもじと内腿を擦り合わせている。すでにその白い肌からは、ボイラーのようにほのかな熱気が立ちのぼっていた。
「ちょうどいい、エルザ。お前のそれ――『魔力過負荷(ボイラー過熱)』の兆候だ。放置すれば、明日の監査中に暴走しかねない。今夜は、お前への『強制冷却インターバル』も兼ねて、二人まとめてケアする」
「ボ、ボイラー……っ、はい……っ、ルディ様の電気で、ちゃんと冷却して、ください……っ」
ルディは、まずテレーゼの財務頭脳を労うように、その丸眼鏡を置いた指先で、彼女のうなじから背筋へと、ほんの微弱な電流を流していく。
「ひゃうっ……! そ、そこ……っ、若君、そこは……一日中、帳簿の数字を睨んで、凝り固まった『過労のツボ』ですわ……っ、あぁ、とろけて……数字が、頭からデトックスの汗と一緒に溶け出していきますわ……っ」
「これは『夜間操業』だ。テレーゼ、お前の張り詰めた緊張を、深部からほぐしていく。明日、監査官どもに不安全な報告を漏らさないようにな」
一方の手では、過熱したエルザの「圧力弁」を、慎重に、しかし的確に解放していく。バチ、バチ、と微弱な火花が散るたび、エルザの白い肢体がビクン、ビクンと跳ねた。
「あぁっ……! 冷却、されて……っ、なのに、自律神経がオフにされて……っ、ルディ様、ルディ様ぁっ……!」
ルディの放電マッサージによって、二人の幹部は極上のリラクゼーションの泥沼へと沈み込み、心地よいデトックスの汗を流して完全に骨抜きにされていった。
――その時。
執務室の扉の、わずかな隙間。
総務補佐のクレアが、息を殺して、その光景を覗き見ていた。
(また……また、わたしじゃない……。テレーゼ様も、エルザ様も……あんなに、幸せそうな顔をして、ルディ様の電気で癒やされて……)
白いシュミーズの下で、クレアは無意識に、自分の太ももをギュゥッと強く押し合わせていた。じわり、と、内腿の奥から、極上のデトックスの熱と心地よい汗が滲み出し、シュミーズをじっとりと濡らしていく。
(わたしだって……わたしだって、ルディ様の安全システムに組み込まれて、あのビリビリするお仕置きで調律されたいのに……。わたしの番は……いったい、いつ来るの……っ?)
クレアの知的な脳髄は、ルディへの強烈な羨望と自律神経の過反応(漏電)によって、甘く痺れ始めていた。
ルディは、二人の幹部の自律神経が完全に弛緩し、安らかな寝息を立てはじめたのを確認すると、額の汗を拭った。
(……ふぅ。緊急メンタルケア、二件、完了。これで俺の判断力も明日には回復するだろう。……『調律完了』。労働災害予防、ヨシ)
脳内スプレッドシートのアラートが、ようやく沈静化していく。
だが、ルディは気づいていなかった。
扉の隙間で、もう限界寸前まで張り詰めた、新たな「未調律」のヒロインが、明日からの監査戦の裏側で、もう一つの時限爆弾として、静かにカウントダウンを始めていたことに――。




